喜寿のタンザニア紀行 帰ってからのアフリカ②|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
喜寿のタンザニア紀行 帰ってからのアフリカ②「奴隷制と資本主義の発展」の記事です。
MK新聞2015年6月1日号の掲載記事です。
奴隷制と資本主義の発展
上の絵を見て思わずギョッとした。ウソダロウとも。
しかし、これは紛れもない現実である。
私が見たのはダニエル・P・マニックス『黒い積荷』(原著1962年、ニューヨーク。土田とも訳、平凡社、1976年)だったが、出典はパリで1969年に刊行された資料集『フランス革命と奴隷制度の廃止』で、目を通した何冊かの奴隷関連文献のうち、『アミスタッド号の反乱』など2冊で同じ絵が使われていた。
アリではない、人間である。奴隷制の問題では必ず言及されるエリック・ウイリアムズ『資本主義と奴隷制――経済史から見た黒人奴隷制の発生と崩壊』(原著1944年。山本伸監訳、明石書店、2004年)によると、一人あたりのスペースは長さ168cm、幅41cm、「書棚の本」のように詰め込まれ、右足と左足、右手と左手を2人ずつ鎖で繋がれた(70ページ)。
「廃止されると町は没落する」
同書によると新世界における最初の奴隷は黒人ではなく、先住民だったが、すぐに音を上げてしまった。
次に契約労働者として使われたのは貧困層の白人で、封建制度を嫌う荘園の小作人、地主や教会の抑圧から逃れてきたアイルランド人、ドイツの三十年戦争(1614~48)から逃げ出したドイツ人などだった。
犯罪者も供給源だった。
イングランドで1664年に作られた法案では、浮浪者、無職者、コソ泥、ロマ(ジプシー)、もぐりの売春宿の常連、ごろつきはすべて植民地に送られた。
妻を捨てる夫や夫を見捨てる妻もおり、ドイツからの移民の波は「移住屋」を生み出した(34~40ページ)。
これはいわば“歴史遺産”として現在のイタリアとアフリカを結ぶ密航業者につながる。
奴隷貿易は冶金産業を隆盛させた。
黒人を縛りつけ、暴動や自殺を防止するための足枷、鎖、南京錠、さらに奴隷を見分けるための焼き鏝(ごて)。
イングランドで奴隷貿易廃止論が議会に提出された時、リヴァプールの鉄、銅、真鍮、鉛の製造業者や取引業者は、「もし廃止されれば町は没落し、市民の多くは困窮する」と反対の請願を行った(同書130~3ページ)。
リヴァプールから最初の奴隷船がアフリカに出航したのは1709年、わずか30トンの小型船だったが、1730年に13隻、1771年に7倍になり、1795年にはイギリスの奴隷貿易の8分の5、全ヨーロッパの7分の3を占めた。
奴隷市場が拡大すると、西アフリカ海岸の小部族の間に戦争状態が蔓延し、ビアフラ湾では奴隷船船長と海岸諸国家間に協力体制が敷かれ、内陸の部族を収奪した。
イギリス、フランス、オランダでは海運業が成長し、奴隷貿易によってもたらされた資本の原始的蓄積は、鉱山、鉄道、紡績工場に投資された(『黒い積荷』11ページ)。
民主主義と奴隷制
奴隷制についてはアメリカを欠かすことはできない。
おそらく30年以上も私の本欄に並んだままになっていた本田創造『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)は「自由と民主主義」の国の実像を描き出し、本文は1963年8月28日のワシントン大行進から始まり、当時の熱気を伝える。
排優のマー口ン・ブランド、ポール・ニューマン、バート・ランカスター、カーク・ダグラス、歌手のベラフォンテ、マヘリア・ジャクソン、サミー・ディヴィス・ジュニアなどもいた。
夕刻近く、マーチン・ルーサー・キング牧師が登壇すると集会は最高潮に達した。
彼は「わが共和国の建設者たちが、憲法と独立宣言の崇高な言葉を書き記した時、彼らはすべてのアメリカ人が受け継ぐべき約束手形に署名していた。今日、黒人市民に関する限り、この約束手形の支払いは履行されていない。われわれはこの小切手を現金に換えるためにここにやってきた」と述べ(1~18ページ)、以後現在まで世界の至るところで「わたしには夢がある」という言葉が伝え続けられてきた。
話はこの大行進から340年も前に遡る。
アメリカ最初のアフリカ黒人がヴァージニアに“輸入”されたのが1619年8年、オランダ船が西インド諸島からジェームズタウンに寄港し、農園主に売り渡した。
そのひと月前の7月、この場所で、ヴァージニア初の植民地議会が開かれた。
そしてそれから1年4か月後、1620年11月、メイフラワー号から102人が上陸した。
アメリカ史においてこの植民地議会がアメリカ民主主義の萌芽として高く評価されているが、その事実について本田はこう述べる。
「アメリカ最初の代議制議会の誕生と、アメリカ最初の黒人奴隷制度が同じ時、同じ場所、同じ人間によってなされた」(80ページ)。
そして、1789年の合衆国憲法は「入国を適当と認められる人々の移住または輸入」、つまり黒人奴隷貿易は少しの税金さえ払えば、1808年まで憲法で保障されることを宣した(54ページ)。
51年前の南アフリカ問題懇話会
ここで『黒い積荷』を巡る小さなエピソードに触れたい。
最近知ったことだが、この本の訳者の土田ともは私たちのタンザニア旅行を企画したダルエスサラームの旅行代理店ジャターズの代表、根本進さんの高校の先輩だった。
根本さんが1980年代に駿台予備校生だった時、受験と関係がないアフリカについて講義をする先生がその人だった。
同書の訳者紹介欄には「1945年生まれ、南アフリカ問題懇話会の故野間寛二郎氏に触発されアフリカ研究に入る」とある。
そこで野間の著書『差別と叛(はん)逆の原点』(理論社、1969年)を大阪府立図書館から借りだして目を通すと、「あとがき」には、「1964年に南アフリカ問題懇話会という規約もない小さなサークルを作り、ガリ版刷りのニュースを出した、アフリカの人種抑圧に持続的な関心を持つ日本で唯一の存在だった」とある。
これが日本の反アパルトヘイト運動の先駆のようだ。
野間は1912年、神戸市生まれ、慶応医学部予科在学中の1931年に治安維持法違反で4年聞役嶽され、その後は改造社、戦後は岩波書店の編集者を務めた(『朝日人物事典』)。
土田は野間に導かれて運動に参加し、塾講師としての土田に浪人である根本が出合った。
予備校で受験には役立たないアフリカについて話すという単独者がいて、その影響を受けた人物と関わる形で、こうした原稿を書いている。
治安維持法との関連でいえば、私は第一次共産党の創立メンバーの一人、小岩井浄(きよし)の伝記を書きおろしている(『愛知大学を創った男たち』、2011年)。
土田という人は今どうしているのだろう。(次回は「世界初、ハイチの黒人革命」を予定)
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について
ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。
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1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)