水俣病50年、果たして終わりはあるのか?〈下〉|MK新聞連載記事

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水俣病50年、果たして終わりはあるのか?〈下〉|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
水俣病50年、果たして終わりはあるのか?の記事です。
MK新聞2011年4月1日号の掲載記事です。

50年前に先駆した若者たちの志

貴重資料の盗み撮り

今から50年余り前の1960(昭和35)年、当時24歳の写真家志望の青年が『週刊朝日』記者の紹介状を持って水俣市立病院を訪れ、水俣病患者の撮影を願い出た。
大橋登院長は「写真でいったい何が出来るとぉ」と彼を一喝し、うろたえた彼は「水俣を撮ることで写真家の登竜門をくぐりたい」と本音を述べ、院長は「よかですたい」と答えた。
この青年は1936(昭和11)年生まれ、桑原史成といった。
それから二年後の1962年秋、彼は東大大学院生の宇井純と水俣に滞在していた。
宇井は「いつもくたびれた詰め襟の学生服」だった(桑原『水俣・韓国・ベトナム』)。
二人は新日本窒素付属病院小嶋照和医師と対面していた。
小嶋医師は細川院長の下で水俣病の追究をしており、二人にネコ実験のデータの一部を見せると、宇井の表情が急に引き締まった。
小嶋医師はそのまま部屋の外へ出た。
桑原「宇井さん、複写しましょうか」、宇井「それは、まずいよ」。
しかし、桑原は震えながらも“盗み撮り”をした(同書37ページ。以下引用文のあとの数字はページ)。
この場面を宇井は次のように述べている。「電話がかかってきて、相手が席を立ったときノートを忘れて、私は手で写し、三、四分のうちに全部写してもとへもどしておいた」(宇井『公害原論』Ⅰ、126)。

宇井は1932(昭和7)年生まれ、東大工学部応用化学科を卒業後、日本ゼオンに勤務し、工場のなかでしばしば排水に流した水銀の行方が気にかかっていた。
そして、1963年の時点で、桑原との調査で水俣病の原因は工場排水中のメチル水銀であることに疑いがなかったのだが、東大助手という立場でそれを天下に公表する勇気がなく、1965年の第二水俣病が起こってしまったことを悔いている(同書13)。
1960年に熊本大学医学部大学院を卒業した原田正純は、当時水俣をウロウロし、仕事は猫の餌やりだった。
この前年、NHKTV『日本の素顔』で水俣病患者の映像に接して衝撃を受けていた(原田『水俣病』岩波新書)。
患者を家に訪ねると「学生さんが写真撮りに来ていた」と何度か聞いたが、それが桑原であり、大学や役所に行くと「東大の院生が水俣病の資料を集めて回っている。何をするわからんから注意しろ」といわれた(『水俣学研究』第二号、九)。原田は1934(昭和九)年生まれ、彼ら三人はみな20代だった。

立身出世に役立たない

桑原の写真集『水俣』には鹿児島出水市、未認定患者家庭の写真(1977年当時)があり、立てかけたような五校の障子はほとんど骨だけである。
原田もある患者の家について「子どもたちはウンチとオシッコにまみれて寝かされていた。
畳もふすまもぼろぼろで家財道具一つなかった」としている(『いのちの旅』55)。
こうした現実は病院に来る患者に接しているだけでは見えないものだった。
前号で紹介した集会で熊本学園大学水俣学研究センターの田尻雅美は「健康・医療・福祉相談の五年」を発表し、そのなかで、「相談の相手が原田先生で、安心して来所する人が多く、先生の存在が大きい」と話していた。

ところで宇井が東大助手時代に始めた『公害原論』(第一回、1970年10月)の「開講のことば」には「立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する」とある。
そして、公害問題は差別の一形態であり、加害者が被害の状態を何かの数値でとらえても、公害の認識は加害者と被害者では次元が違うのであり、その両者の認識を同列において両者の中をとることは元来不可能、と言う。
差別は全生活的であり、被害者の加害者に対する唯一の答えは「お前と俺の場所を入れ替えよう、こっちに来て俺と一緒に住め」であると断言する(『公害原論』Ⅰ、36~39)。
この差別については『水俣学研究』第二号(123)にこんな話がある。
チッソに東大出が入社すると、水俣の女性との付き合いが禁じられ、そのため“泣いた”女性が何人かいた。

桑原は念願の個展「水俣病―工場廃液と沿岸漁民」を開く。
1962年9月の十日間、数寄屋橋ショッピングセンター二階の常設「富士フォトサロン」。
当時、写真の常設開場はあと地下鉄東京駅の通路片隅だけだった。
開催二日目、富士フィルムに対して財界総本山の経団連から「好ましからざる写真展」という強い不満が伝えられ、企画を取り上げてくれた石井彰宣伝課長が富士のトップに呼びつけられた。
同社には社員が会社に不利益をもたらすと減俸される制度があったが、そのことについて石井彰課長は桑原には話さなかった(桑原『水俣・韓国・ベトナム』六九~七六)。
ある志が世に出てゆく過程では、チッソ付属病院の小嶋医師やこの石井課長のような秘かな支援者の存在があるのだろう。

先に、加害者と被害者の中を取ることはあり得ないという宇井の言葉を紹介したが、原田も「原因と責任は力あるものにあって、結果と被害は弱者にしわ寄せられる」(『いのちの旅』129)、「力の強い権力と力のない弱い立場の患者がある場合、弱者の立場に立つのが公平であり、医学の中立性を保つことになる」(同三)と言い切る。
さらに、大著『オリエンタリズム』で知られるエドワード・サイードの次のような言葉を引用をする。
「知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択しかない。
弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力を持つ側につくか」(大橋洋一訳『知識人とは何か』61)。

さて、現在水俣病問題について明るい見通しがあるわけではない。
しかし、例えば宇井は1968(昭和43)年1月に新潟の患者が水俣を訪れたとき、日頃は絶対人前に出ない患者が何十人も水俣駅へ集まって出迎えたこと、その二ヵ月後にはチッソが患者の年金値上げを一方的に通告してきたことを踏まえて「患者同志が連帯すれば、こういうふうに向こうが縮み上がる」(『公害原論』Ⅰ、151)、「1969年暮、裁判が始まって水俣の患者の訴訟派の人たちにあった時、みんなが明るくなった・・・差別の底にある人間が自分たちと肩を組んで一緒に行動してくれる人間を見つけたときの喜び」(同184)と述べている。
同様に原田は、「あの水俣の絶望的な中から、わずかな人間が立ち上がることによって状況が大きく変わった経験」(『いのちの旅』269)を「将来への希望」としている。

三人の一人、宇井純は2006年11月11日、74歳で世を去った。
この時、原田は宇井と1969年に初めて会った時を回想し(朝日新聞)、宇井に「認定患者のほかに、ひどい症状の人が大勢いる」と話すと、じっと聞いていた宇井は涙をぽろっと流して「申し訳ないな」と言ったという。

参考文献・宇井純『公害原論』1971、亜紀書房/・桑原史成『水俣・韓国・ベトナム』1982、晩聲社/・同『水俣 終わりなき30年―原点から転生へ』1986、径書房/・原田正純『水俣病』1972、岩波新書/・同『いのちの旅 「水俣学」への軌跡』2002、東京新聞出版局/・E.サイード『知識人とは何か』大橋洋一訳、1995、平凡社/・熊本学園大学水俣学研究センター『水俣学研究』第二号、2010

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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