関東大震災での救護や運搬での活躍を機に飛躍した自動車とタクシー
1913年9月1日、関東南部を未曽有の大地震が襲いました。関東大震災です。市内の交通が途絶するなか、救護活動や物資運搬に活躍したのが、当時はまだ贅沢品あつかいされていた自動車です。
関東大震災での活躍がきっかけとなり、自動車の有用性が広く認知され、タクシーをはじめとする自動車が一気に飛躍しました。
関東大震災で交通が途絶
今から100年前の1913年9月1日、関東を大地震が襲い、死者・行方不明者10.5万人という未曽有の大災害となりました。
交通機関も大打撃を受け、なかでも東京市電は779両が焼失するなど甚大な被害を受けました。
さらに市電は軌道が破壊され、電柱が倒壊し、電力網が寸断されたためて復旧のめどがたたない状態でした。
関東震災前の東京は、市内交通は主に市電によって担われおり、移動手段は徒歩に頼らざるを得ませんでした。
そこで活躍をしたのが、当時はまだ珍しかったタクシーやバスなどの自動車です。
関東大震災では、当時はまだ台数が少なかった自動車も大きな打撃を受けました。警視庁によると東京でも458台(乗用車85台、貨物車362台、その他11台)が焼失しました。
しかし、鉄道とは異なり線路も電力網も必要のない自動車は、ガソリンさえ確保できれば、道路があればどこへでも移動することができます。
被災を免れた自動車が、関東大震災直後から活躍を始めます。
救護や物資運搬に自動車が活躍
関東大震災発生の翌日9月2日には、緊急勅令396号「非常徴発令」が発せられました。被災者の救済に必要な食糧、建築材料、衛生材料、運搬具その他の物件、または労務について、内務大臣が必要と認めるときは非常徴発を命じることができるとされました。
同日、勅令第397号「震災事務を司どる臨時震災救護事務局官制」が発せられ、ただちに臨時震災救護事務局が活動を開始しました。
臨時震災救護事務局は輸送については「自動車・荷馬車・荷車・ガソリン等は、手近なものを出来得る限り多く徴発して物資の輸送にあたらせること」という方針が掲げられました。
これらの勅令により、自動車から荷車、荷馬車にいたるまで全国から徴発され、東京などの被災地へと集められました。
被災地で自動車は炊き出し配給や、復旧資材の運搬などに活躍しました。
海外からも大量に救援物資が送られてきましたが、当初は港から運ぶ手段がなく港で滞留していました。
自動車の活躍により、物資を必要としているところに救援物資を届けることができました。
運搬以外にも、連絡手段・警戒役など様々な用途で自動車が活用されました。
実用性が認められた自動車
関東大震災以前から自動車は走っていましたが、まだまだ贅沢品、嗜好品と考えられていました。
タクシーも1911年から運行が始まり、次第に台数も増えてはいましたが、まだまだ一般市民の乗り物ではありませんでした。
それが、関東大震災での活躍により、高い実用性・公共性があることが一般市民にまで認められるようになりました。
タクシーも比較的安価に移動できる手段として認知されるようになり、震災復興とあわせて飛躍的に台数が増加しました。
市電が壊滅的な打撃を受けた東京市は、急遽自動車を800台輸入し、1914年1月18日から東京市営バスとして運行を始めました。
9月17日には緊急勅令によって、1914年3月まで貨物自動車以外の自動車及び自動車部品の輸入税を5割減免する措置が取られました。
自動車の有用性が認められたためです。
これによってアメリカからの自動車の輸入が飛躍的に増加し、自動車販売店も急増しました。
関東大震災からの復興後もタクシーは市電と並んで東京市内の主たる交通手段としての地位を確立しました。
震災の前年には1,291両だった東京市内の営業用乗用自動車数は、震災から3年後の1926年には3,473両まで増加しました。
やがて市内を一円均一で走る「円タク」が導入され、タクシーは戦前の黄金時代を迎えることとなります。
東京市内の営業用乗用自動車数(東京市年報より)
1917年 | 433両 |
1918年 | 720両 |
1919年 | 819両 |
1920年 | 972両 |
1921年 | 1,205両 |
1922年 | 1,291両 |
1923年(関東大震災) | 1,509両 |
1924年 | 2,101両 |
1925年 | 2,547両 |
1926年 | 3,473両 |
参考資料:
1944年刊行「自動車三十年史」
1961年刊行「日本交通社史」
1967年刊行「日本自動車工業史稿」