北京紀行① 満州国と阿片|MK新聞連載記事

よみもの
北京紀行① 満州国と阿片|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
2016年に北京などを訪れた際の連載記事の第1回です。
MK新聞2017年2月1日号の掲載記事です。

北京紀行① 満州国と阿片

習近平・中国とプーチン・ロシアには行くまい、と前から思っていたことなのだが、友人の死がきっかけで中国へ行くことになった。
その友人はMK新聞に206回にわたって「自給自足の山里から」を病床にあっても書き継いで昨年の3月、74歳で亡くなった縄文百姓・大森昌也君のこと。

彼は日本の敗戦の3年前、1942(昭和17)年、当時満州と呼ばれていた土地で生まれた。
中国の首都北京の右斜め上のあたりにある承徳(しょうとく)で、当時の正式の地名は「満州国熱河省(ねっかしょう)承徳県西大街紅廟山東披229番地」。
この地名を大森君の大学同期生で、中国現代文学の研究者、岩佐昌暲君に調べてもらったところ、「きわめて興味をそそる地名です。承徳は戦時中、阿片と密接な関係がありました」と返事があった。
実はその少し前に、大森君の一つ違いの妹でやはり満州で生まれた和子さんから「父は阿片を扱う仕事をしていたと、母が生前ちらっと話したことがあります」と聞いていたことと符合する。
大森君があーす農場の自宅でテレビを見ていたとき、偶然、満州と阿片の話が出て、彼は子どもに「親父は満州で阿片の仕事をしていた」と言ったそうだ。

彼が大阪市立大学法学部に1962年に入学し、66年に卒業。
弁護士志望だったが、部落解放運動に関わり、さらにいわゆる新左翼の過激派組織の一つ、RG(エルゲー。ドイツ語のローテ・ゲヴァルト=赤い暴力)の軍事部門に属し、火炎瓶闘争の部隊長でもあった。
その彼が母の反対を押し切って結婚した妻とともに山奥の僻村に入り、まったくの素人から百姓を始めたのだが、彼を知る者たちには、それは全くの変身ないし転身と映ったらしい。
私はそのころの彼とは全くの没交渉で、山奥に入ったことは風の便りで知った程度に過ぎない。

やがて、1997年7月に彼の書き下ろし『六人の子どもと山村に生きる』が東京の麦秋社(ばくしゅうしゃ)から刊行されて、われわれ市大の卒業生たちは彼の暮らしぶりを知ることになり、その出版記念会を大学の杉本町校舎(JR阪和線)の生協食堂で開いた(この出版社はその後解散)。

この本が出た翌年、1998年の夏、文学部卒の遠藤(旧)惠子さんに誘われてあーす農場を訪ねた(彼女は先月号5面に南ア記を寄稿している自称・深窓の麗嬢と同一人)。
私は彼の生活ぶりを友人たちに伝えたいと思い、後日、改めて一人で2泊し、MK新聞に1998年10月から3回連載をし、それを受けるような形でその年の12月号から「時給自足の山里から 縄文百姓・大森昌也」の連載が始まった。
この企画を編集部に提案したときは、一年間の四季の移り変わりが伝わればいいと思っていたのだが、読者の反響が続いて連載は継続し、彼がガンになって執筆不可能になるまで、最終回の2016年4月まで206回続き、この間の校正は全て私がした。

彼の父親、濱田壽賀雄については不明の部分が多く、経歴は再現はできないが、戸籍謄本で、1915(大正4)年、岡山県和気郡に生まれ、1941(昭和16)年、大森田鶴子と結婚、2人は満州に渡って昌也、和子を生み、壽賀雄は現地で軍隊に召集され、敗戦の年、昭和20年の12月に外蒙古フバートル方面での死亡が確認できる。
日本政府が作り上げた“幻の帝国”満州と阿片との関わり、それも身近な大森君の実夫も関わっていた事実は、私の興味をそそった。
大変遠回りになってしまったが、今回の承徳行きの理由である。

そして、岩佐君の「承徳に一緒に行ってもいいよ」という思いがけない言葉で中国語の全くできない私はその好意に甘えること西、習近平の国へ行くことになった。
学生時代からのポン友であり、会えば互いにダジャレを連発する仲だったから、気ままな旅のはずだったが、程なく「ヨメさんも一緒に行くと言っている」と連絡が来た。
その瞬間、79歳の私と大森君と同年の岩佐君の年寄り2人が中国へ行くことに不安を覚えたに違いないと思った。ヨメさんの伊藤友子さんは中国ガイド30年のキャリアがある。
さらに、妹の和子さんと大森君末娘のあいさんも同行することになって、去年2016年8月20日、関西空港を5人で飛び立った。

2016年10月18日「北京青年報」の記事

2016年10月18日「北京青年報」の記事

北京空港に降り立つと、外はスモッグのためどんよりと薄暗く、マスクを着けた。
実は、機内で見た10月18日の「北京青年報」には「重度汚染」の記事があり、予想はされていた。
伊藤さんが手配してくれていたワゴン車ですぐに承徳へ向かった。
2時間近く走ってようやくスモッグ圏を脱したと思う。陽光も出て、ホッとする。
ホテルに荷物を預けてすぐに昌也が生まれた場所へ行ったが、すでに地名の表記も変わり、住んでいたはずの平屋の家々は古びた安アパート群となり、入口の郵便受けも錆びている。
あたりに古くから住んでいた人も見当たらず、70余年前をしのぶ者は絶無。あたりを歩いてみたが、坂道、石段がやたらに多い地域だった。満州の風物として必ず出てくる“赤い夕陽”を写真に撮りたかったのだが、視野に入るのはニョキニョキとそびえる高層ビルばかり。

満州の夕陽は幼い昌也に強い印象を残していたらしい。
私は直に聞いてはいないのだが、生前、Mさんがあーす農場に向かう車に同乗していた時、ちょうど夕陽が出てMさんに、「夕陽を見ると無性に寂しくなる」と呟き、その語調がMさんに強い印象として残ったということを、Mさんから聞いていたのだが見えたのはビルの陰に隠れそうになる直前の夕陽だった。

2日後の21日、北京で開かれていた「日本の対中侵略犯罪証拠展」で入手したカラー印刷の冊子『日本侵略罪証』45ページには、1941年4月、日本傀儡北京特別市警察局が、「アヘン吸引店許可金を徴収した領収書」の写真があった。

『日本侵略罪証』に掲載されている「アヘン吸引店許可金」の領収書

『日本侵略罪証』に掲載されている「アヘン吸引店許可金」の領収書

 

MK新聞について

MK新聞とは

「MK新聞」は月1回発行で、京都をはじめMKタクシーが走る各地の情報を発信する情報紙です。
MK観光ドライバーによる京都の観光情報、旬の映画や隠れた名店のご紹介、 楽しい読み物から教養になる連載の数々、運輸行政に対するMKの主張などが凝縮されています。
40年以上も発行を続けるMK新聞を、皆さま、どうぞよろしくお願いします。

ホームページからも最新号、バックナンバーを閲覧可能です。

 

フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、35年間にわたってMK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

この記事が気に入ったらSNSでシェアしよう!

関連記事

まだ知らない京都に出会う、
特別な旅行体験をラインナップ

MKタクシーでは様々な京都旅コンテンツを
ご用意しています。