喜寿のタンザニア紀行 帰ってからのアフリカ③|MK新聞連載記事

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喜寿のタンザニア紀行 帰ってからのアフリカ③|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
喜寿のタンザニア紀行 帰ってからのアフリカ③「世界初、黒人革命のハイチ」の記事です。
MK新聞2015年7月1日号の掲載記事です。

世界初、黒人革命のハイチ

アフリカは歴史の外へ

ドイツの哲学者フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)はその有名な『歴史哲学講義』序論でアフリカを“歴史の外”へ放り出した。
そこは、自己より高度な実在の存在を知らず、奴隷制を不都合とは思っておらず、世界史に属する地域ではなく、運動も発展もない。
これを歴史の外に押しやって初めて世界史の現実は見えてくる、という(長谷川宏訳、岩波文庫、2003年)。
しかし、カリブ海に浮かぶハイチでフランス革命と並行して、1800年代初頭に世界で初めて黒人による革命が成った。
まさにヘーゲルが生きていた時代だ。
この革命の経過をトリニダード出身のC・L・R・ジェームズ(1901~89)が英仏の膨大な資料を元に『ブラック・ジャコバン』と題して、1938年、イギリスで出版。
日本語版は青木芳夫(1948~)監訳、本文2段組、500ページ余りの大著(大村書店、1991年)。
また、浜忠雄(1943~)が長年の研究を『ハイチ革命とフランス革命』にまとめた(北海道大学図書刊行会、1998年)。

ブラック・ジャコバン

ブラック・ジャコバン

「私は復讐に着手した」

18世紀の仏領サン・ドマングにいた約50万人の黒人奴隷の3分の2はアフリカ生まれだった。
1789年7月にフランス革命が始まり、サン・ドマングでは3年後の1791年に北部でヴードゥーの高位司祭、黒人のブクマンの指導で一斉蜂起が起こった。
浜によるとヴードゥーはアフリカ起源の精霊信仰とキリスト教が混淆(こんこう)した信仰という。
ジェームズによると北部の巨大な精糖工場では数百人が一段となって労働しており、プロレタリアートに近い存在だった。
この中にトゥサン・ルヴェルチュールという45歳の黒人がいた。
彼は1792年初頭には何の知識もない、黒人の軍隊を組織し始めていた。
1792年7月半ば、島の奴隷主間の抗争と黒人反乱鎮圧のためフランスから6000人の軍隊が向かったが、島に到着する以前に、パリの民衆がブルボン家を王位から引きずりおろし、8月10日にはチュイルリー宮殿を襲って王たちを監禁し、奴隷制廃止を指示した。
トゥサンは黒人たちを結集し続け、この年の8月29日には「私は復讐に着手した。私は自由と平等がサン・ドマングを支配することを望んでいる」と呼びかけた。その文書には署名とともに「国王軍将軍、公益のために」と記されていた。

ハイチ革命とフランス革命

ハイチ革命とフランス革命

ナポレオンへの書簡

そして1794年1月、自由を買い戻した黒人奴隷、白人、ムラート(混血)の3人の代議員が島から国民公会に出席し、黒人とムラートが登壇すると議場は議員と聴衆の拍手に包まれた。
翌日、パンフィル・ド・ラクロワが国民公会はすべての植民地の奴隷制を廃止することを宣言した。
1795年から1796年にかけて北部州の労働者の間でトゥサンに対する信頼感が増し、彼の言葉は法律そのものとなった。
フランス黒人たちは、世界に自由と平等をもたらしたフランス共和国の市民であるという誇りに満ち溢れていた(ジェームズ)。
1797年11月、トゥサンはナポレオン政府に一通の書簡を送った。
訳書で2ページ半にわたるが、彼は「奴隷生活を捨てしまった今、再び奴隷に戻されるくらいなら、1000回生まれ変わっても、生命をなげうって抵抗する。
フランスがその原理を撤回し、その恩恵を取り上げることもないだろう」と述べた。

トゥサンは隣接するスペイン領サント・ドミンゴと戦おうとしたが、ナポレオンはそれを禁じた。
しかし、トゥサンは進軍し、1800年1月、スペイン総督は正式に植民地を明け渡し、彼は全島の完璧な支配者となった。
これだけのことを10年足らずで成し遂げたのだが、この間、黒人奴隷の3分の1が死亡し、プランテーションや耕地が広範囲に破壊された。
トゥサンは軍事独裁体制を確立し、再びナポレオンに書簡を送り、植民地統治を進めるための熟練労働者や教師、管理者の派遣を懇請したが、無視された。

トゥサンは1801年、サン・ドマング憲法を制定した。
浜の著書にはこの全訳が収録されている。その中には、耕作者の住所変更は耕作の破壊を招くので、「トゥサン将軍の布告の諸基礎に準じて」取締規則を策定すること、この憲法は「サン・ドマング軍司令官たるトゥサン・ルヴェルチュールを総督に任命する。またトゥサンをその栄光の生涯にわたる終身の総督に任命する」といった条文が含まれている。

ハイチの二の舞になるな

さて、トゥサン軍の鎮圧に派遣されたフランス兵たちは自分たちが革命軍だと信じていた。
しかし、夜になると要塞の黒人兵たちが「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌を歌うのを聞き「あの野蛮な敵の方に正義はあるのか、我々はもう共和国フランスの兵士ではないのか」と驚いたという。
1802年7月、フランス軍に欺かれて捕らえられたトゥサンはフランス東部のジュラ山中に投獄され、1803年4月7日、57歳で没した。
この11月、J・J・デサリーヌらが指揮する黒人軍が仏軍に勝利、1804年1月、彼はサン・ドマングの独立を宣言、国名を先住民が使っていたハイチとした。

同年4月、ナポレオンはフランス皇帝となり、10月、デサリーヌはハイチ皇帝に即位、ジャック1世を名乗った。
残ったのは戦火で荒廃しきった国土だった。
浜の著書によると、カリブ海地域では黒人奴隷制と植民地支配がいっそう強化され、「ハイチの二の舞になることへの懸念が支配的になった」。
ハイチでは権威主義的なエリート支配が生まれ、社会経済構造もプランテーションが温存されるなど、植民地時代と基本的に変わらなかった。
当地権力の専制的・軍事的性格は「遺産」として引き継がれた。
ハイチに続いて独立したラテンアメリカ諸国にとっても、ハイチは封じ込めなければならない存在と映り、ハイチを最悪の国家モデルとして切り捨て、黙殺した(256~77ページ)。

ジェームズは1980年版序文で言う。「アフリカ人を常に他の人々から搾取され虐待される客体としてではなく、自ら大規模な行動を起こし、自分たちの必要のためには他の人々をも指導するような主体的存在として描こうとした」。

サンダルで歩いたアフリカ大陸

サンダルで歩いたアフリカ大陸

光が見えない

表紙の写真しか載せることができない『サンダルで歩いたアフリカ大陸』(岩波書店、2013年)は毎日新聞の特派員、高尾具成記者(1967~)が地べたを這ってものした現地レポートで、若くなければできない仕事だ。
現地の姿は驚き、溜息、嘆息の連続。終章字部は「ぐっすりと眠れる日々は来るのだろうか」。

私が昨年8月、タンザニアから帰ってほぼ10ヵ月が過ぎた。
黒人革命の行く末を見るにつけ、“革命の不可能性”という言葉がしきりに脳裏を去来するようになった。
1960年に学生となった私は“世界革命という理念”に捕らえられていたが、以来、世界は“悪くなっている”としか思えない。
いま日本人に必要な世界地図は大西洋を正面に据えたものではないか。
例えばサッカーのFIFAの世界規模の汚職は「フェアプレイ」による植民地主義の再現であり、貧困と戦禍を逃れてヨーロッパへ渡る農民は、かつての帝国主義への“復讐”を遂行している、ように思える。
心は沈むばかりである。

(おわり2015年6月15日記)

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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