エッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」【385】|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、大西信夫さんによる様々な身近な事柄を取り上げたエッセイ「本だけ眺めて暮らしたい」を前身を含めて1988年5月22日から連載しています。
MK新聞2020年5月1日号の掲載記事です。
本だけ眺めて暮らしたい
「○○の幸福論」といった類の本の前書きには、次のようなことがよく書かれている。
「幸福な人は、幸福について考えたりしないでしょう。この本を手にとり、今、この前書きを読まれている方は、仕事や人間関係の悩みがある、生き方について迷っているなど、現状に十分満足しているとは言えないという自覚をお持ちなのではないでしょうか」と。
ただ、文章上達法や人に好かれる話し方――なんて本ならおおむね、そうなりたいという人が読むのだろうが、幸福論は必ずしもそうではないのではないか。
「幸福とは何か」という哲学的な関心だってあるのだから。
何もそんな高尚な動機を持ち出さなくても、私は現実的、直接的、個人的な目的や必要のない本もあれこれと読む。単におもしろいから。何かを知るということは。
例えば、選挙事務所の運営ノウハウの本や、書店の開業や万引き対策を指南する本、生徒の遅刻や私語や掃除さぼりの指導法の本(もちろん私は教師ではない)など。
なので、これらの本を読んでいる私を見て、あるいはこれらの本が書棚にあるのを見て、いつか政治家になりたいとでも考えているのだろうかとか、今の仕事を辞めて本屋でも始めるつもりなのかなどと、家族や友人に勝手な想像をされたら、いらぬ誤解のもとにしかならない。
それに、文章上達法などの本だって、少なくとも私は、著者の文章に対する考え方、自説の表現の仕方など、つまり文章論として、もしくは著者の書き手としての芸を鑑賞しているのであって、今さら自分がそうなりたいという動機から読んでいるわけではない。
それどころか、うちにある本の多くは、自分が知らないことや自分と異なる意見の人の本だ。
だって、自分がわかっていることや自分と同じ意見が書かれた本ばかり読んでも仕方ないもの。
もちろん、なかには自分が好きな物事についての本、愛読する著者の本もあるが、そうではない多くの本を見て、その著者のファンだとか、共感しているとか思われるとイヤなので、もし私の本棚を見る人がいたら、念のためここに書いたようなことをあらかじめ言っておかなくてはいられないし、死後のことを考えてどこかに記しておかなくてはならない(笑)。
本棚を見ればその人がわかると言われる。だから本棚を見られるのは恥ずかしいと人は言う(逆に見せたい人も)。
しかし私の場合は、わかったつもりになられるのが居心地悪いから、本棚を見られたくない。
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MK新聞への大西信夫さんの連載記事
1988年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。
1988年5月22日号~1991年11月22日号 「よしゆきの京都の見方」(45回連載)
1990年1月7日号~1992年2月7日 「空車中のひとりごと」(12回連載)
1995年1月22日号~1999年12月1日号 「何を見ても何かを思う」(64回連載)
1996年4月16日号~現在 「本だけ眺めて暮らしたい」(連載中)