瀧尾神社は2024年の辰年にお参りしたい龍の京都初詣スポット
目次
2024年は辰年です。辰年の2024年に初詣でお参りしたい京都のおすすめ神社と言えば、瀧尾(たきお)神社です。
瀧尾神社は長さ8メートルもの龍の彫刻が鎮座している、辰年ゆかりの神社です。
ふだんは訪れる人も少ない小さな神社ですが、2024年は12年に1度の辰年ということもあり、初詣スポットとして京都でも大人気を博します。実際にお正月には境内からあふれるほどの大行列ができています。
辰年ではなくても、大迫力の龍はぜひみていただきたい京都でも他に類を見ない彫刻です。いつもは拝殿内部には入れませんが、辰年のお正月期間限定で拝殿内から龍を見上げることができます。
瀧尾神社の龍
瀧尾神社は、JRと京阪の東福寺駅から北へ2分ほど進んだところにあるそれほど大きくはない神社です。
東福寺駅は京都駅からも一駅でアクセスも抜群です。
長さ8メートルの巨大な龍
拝殿の天井にある龍の彫刻
有名な龍の像が鎮座するのは、瀧尾神社本殿の正面にある「拝殿」です。
一般に、神社の本殿のすぐ前にある礼拝所は拝殿と言います。
拝殿の機能がある建物が二つある神社では、京都では伏見稲荷大社のように手前を「内拝殿」奥を「外拝殿」と呼んだり、八坂神社のように手前を「舞殿」と呼ぶことが多いです。
瀧尾神社は、手前の建物を「拝殿」、本殿前の建物を「拝所」と呼んでいます。他に諏訪大社(長野県)なども拝殿と拝所があります。
その拝殿の天井に、大迫力の木彫りの龍がいらっしゃいます。
他に類を見ない巨大な龍
瀧尾神社の木彫りの龍が造られたのは、拝殿と同じ天保10~11年(1839~40年)です。今から200年近く前です。
建物の天井に龍の姿を描くことはよくあります。水をつかさどる龍を描くことで、火災除けの意味が込められています。
しかし、瀧尾神社のように絵ではなく龍の彫刻を設ける例は京都でも他に類を見ません。しかも、全長8メートルにも及ぶ巨大な龍です。
瀧尾神社という社名の由来ははっきりしませんが、龍を強く連想する名称であることとも関係があるでしょう。
また瀧尾神社の本殿は、もともと貴船神社奥宮の社殿を移築したものです。京都市左京区の貴船神社のご祭神である高龗神(たかおかみのかみ)は水をつかさどる龍神です。
龍の彫刻がつくられたのは、そんなつながりがあるのかもしれません。
瀧尾神社のこの素晴らしい龍の彫刻を手掛けたのは、九山新太郎です。
九山家は江戸初期から明治まで代々続いた京都の彫物師の家柄で、当主は新之丞を名乗りました。
歴代の手掛けた作品は、今も西本願寺阿弥陀堂、東本願寺大師堂、善光寺本堂、専修寺如来堂などに残ります。
今も後述する木彫師の森哲荘氏が九山新之丞の名跡を受け継いでいます。
木の良さを存分に生かした木彫
のたうつのな龍のひげも見事です、
木目が見えるため、ひげも木彫でしょう。こんな細くて折れてしまわないか心配です。
全長8メートルの像は、もちろん寄木造です。何十本もの木を組み合わせて造形されています。
のたうつような躍動感あふれる姿です。
木目の使い方まで計算しつくされており、うろこの質感までも見事に表現しています。
もともと彩色されていない白木造りの像です。木材を知り尽くしているからこそできる匠の技です。
頭部はヒノキで、胴部はスギと異なる木が使われています。わざわざ異なる木を使用したのは、後述のとおり大船鉾との関連が指摘されています。
瀧尾神社の龍は白木造りですが、一箇所だけ金箔が使われています。
龍が持った宝珠だけが金色をしています。
金色の玉と龍と言えば、神龍とドランゴンボールを思い起こしますね。
夜な夜な龍が抜け出したという伝説
あまりの龍のできの良さが生んだ伝説
瀧尾神社の龍は、あまりにもすばらしい出来だったため、伝説が生まれます。
夜な夜な拝殿を抜け出して瀧尾神社のすぐ北を流れる一ノ橋川(今熊野川)まで水を飲みに行ったと言われるようになりました。
困った神社は、龍が抜け出せない用に拝殿の天井に金網を設置していたそうです。今はもう龍が抜け出ることがないのか、金網は取り外されています。
なお、2008年に瀧尾神社訪問時の写真を見ると、金網こそありませんが、ワイヤーが張られています。
まだその頃は龍が抜け出すことがあったのでしょうか。
後述のとおり、龍が訪れたという一ノ橋川は今は暗渠化されてありません。
祇園祭の大船鉾の龍頭との関係
2016年に復活した大船鉾の舳先の龍頭
瀧尾神社の龍と同じ顔をした龍が、京都三大祭のひとつである祇園祭にも登場しています。
2014年に150年ぶりに祇園祭後祭の山鉾巡行に復帰した大船鉾は、2016年に舳先の龍頭が復元されました。
この龍頭を手掛けたのが、瀧尾神社の龍を作った九山新之丞の名跡を受け継ぐ森哲荘氏です。龍頭復元にあたって名跡を受け継ぎました。
2015年に瀧尾神社の龍頭は修理のためにいったん天井から降ろされました。
この龍頭をもとに森哲荘氏は大船鉾の龍頭を製作しました。重さは220kgもある大作です。
復活した龍頭は、祇園祭の山鉾巡行を前に、瀧尾神社の拝殿でお披露目が行われました。
瀧尾神社の龍と大船鉾の龍は兄弟説も
大船鉾と瀧尾神社にはもう一つの縁があります。
瀧尾神社を代々支えてきた大丸は、かつて大船鉾の寄町にありました。
元治元年(1864年)に焼失する前の大船鉾の龍頭は文化元年(1804年)に製作されたことがわかっています。
瀧尾神社の龍が製作されたのと数年を隔てるのみです。
いずれも大丸の支援により同時期に制作された兄弟龍の可能性があります。
大船鉾の龍頭を製作したのは、九山新太郎の父である九山新之丞の可能性が高いとされています。
その縁もあって、大船鉾の龍頭は瀧尾神社より寄贈されました。
瀧尾神社の龍と大船鉾の龍頭は見る角度が異なるのでわかりにくいですが、たしかに同じ顔をしています。
大船鉾と瀧尾神社にこのような縁があるとは全く知りませんでした。
なお大船鉾の舳先の装飾は、龍頭と金幣が隔年で用いられます。
辰年の2024年はちょうど龍頭の順番です。辰年が龍頭になるように考えられているのでしょう。
2023年の大丸京都店で展示されていた瀧尾神社の龍頭
すっかり忘れていましたが、2023年の祇園祭の山鉾巡行を見に行った際に、大丸京都店で瀧尾神社の龍頭が展示されていました。
四条通側のショーウィンドウの最も目立つ位置です。
2023年7月1日~12日は大船鉾の龍頭が展示されており、13日~31日は瀧尾神社の龍頭が展示されていました。
おそらく2024年も展示されるので、祇園祭に行かれた際はぜひ見に行ってください。
瀧尾神社では頭上にあるのを下から見上げる形ですが、大丸京都店では真横から見ることができます。
200年近く前の彫刻ですが、修復されて美しい姿を取り戻しています。
瀧尾神社と大船鉾、大丸には今も深い縁が続いているのです。
なお、現在大丸京都店がある立売西町はすぐ西にある長刀鉾の寄町です。
1912年に現在地へと移ってきました。
祇園祭期間中は大丸京都店1階の特設会場には、1/10サイズの長刀鉾のミニチュアが展示されています。
龍だけではない多彩な彫刻群
本殿周辺の彫刻群
瀧尾神社の木彫と言えば、拝殿の龍が最大の見どころですが、他にもたくさんの巧みな彫刻があって必見です。
拝殿の屋根には、様々な動物の姿が彫られています。精密に彫られた見事な彫刻です。
象や龍の目には玉眼が用いられています。屋根に覆われてやや薄暗い中で、つぶらな瞳がらんらんと輝いています。
瀧尾神社の本殿を取り囲む透塀の上部には、十二支の像が彫られています。
上の写真では鳥と猿の姿です。
なかには、よくわからない動物の姿もあります。胴体は麒麟っぽいですが、顔は明らかに違う動物です。
何らかの聖獣・瑞獣なのでしょう。
手水舎の彫刻群
瀧尾神社では、さらに手水舎にまで木彫の装飾が施されています。
本殿や拝殿のように境内でもそれほど重要な建物ではありませんが、あちこちにも木彫りの動物の姿があります。
上を見上げると、今にも飛びかからんばかりの獅子の姿があります。
手水舎には、間違いなく麒麟であろう像もあります。
瀧尾神社の拝所、拝殿、手水舎、絵馬舎はいずれも天保10~11年(1839~40年)に建てられたものです。
いずれも京都市の指定・登録文化財となっています。
瀧尾神社の彫刻は、200年近く前のものですが、外気に触れる屋外にありながらかなり保存状態も良いです。
ぜひ、ひとつひとつの彫刻をゆっくりと楽しんでください。
新春限定の拝殿昇殿拝観
2024年の正月には、龍の彫刻のある拝殿の昇殿拝観も行われます。
辰年を迎えた2024年は、普段は静かな瀧尾神社も大賑わいです。
瀧尾神社では、本殿参拝と拝殿昇殿拝観の2つの列ができています。写真の右が龍の昇殿拝観で、左が本殿参拝の列です。
訪れたのはもう1月7日でしたが、本殿参拝の列は境内からあふれ出しています。昇殿拝観の列はそれほど長くはなく、数分程度で昇殿できました。
昇殿初穂料は、500円必要です。普段は入れない拝殿なので、昇殿できる機会は貴重です。
拝殿内にはベニヤ板が張られており、土足で登れるようになっています。
普段は斜めからしか見られない龍ですが、拝殿内からは真上に見ることができます。
真下から見上げるとこんな感じです。龍のあごの下が良く見えます。
龍の頭もすぐ目の前で見ることができます。
頬の部分の木目がとってもチャーミングです。
塗装のない白木の彫刻ですが、木目もうまく利用されています。
胴部ものたうつような躍動感にあふれています。
するどい足の爪もみごとです。
多くのパーツが組み合わされていることがよくわかります。
拝殿内は入場制限をしているため、思ってより混雑はしていません。
いろんな角度から動きながらじっくりと龍を見ることができます。
1月5日(金)~7日(日)は「京都東山福めぐり」開催
2023年に47年ぶりに復興
瀧尾神社をはじめ、恵美須神社、京都霊山護国神社、霊山観音、春光院、高台寺、圓徳院、岡林院では復興第2回「京都東山福めぐり」が開催されます。
1952年~1975年にあった「東山十福神巡り」が2023年に47年ぶりに復興されました。
以前の東山十福神は、満足稲荷神社、出世恵美須神社(粟田神社内)、安養寺弁天堂、長楽寺、双林寺、圓徳院、金剛寺(八坂庚申堂)、安井金比羅宮、東景寺、美御前社(八坂神社内)だったので、圓徳院以外は顔ぶれが一新されています。
瀧尾神社以外の特別公開寺院にも注目
3日間限定のお守り札が授与されたり、限定特典つきの福めぐりセットなどがあります。
瀧尾神社の木彫龍もさることながら、通常非公開の岡林院の苔庭公開には大注目です。ねねの道の脇にある高台寺の塔頭寺院です。
同じく高台寺塔頭で通常非公開の春光院も注目です。
京都東山福めぐりは三連休ではなく、1日ずれた1月5日(金)~7日(日)の開催なのでご注意ください。
瀧尾神社について
瀧尾神社の歴史
瀧尾神社は、京都と伏見を結ぶ伏見街道の第一橋の東南にある神社です。祭神は大国主命です。
藤森神社の末社で、毎年5月5日に盛大に催される藤森祭では神輿が瀧尾神社まで巡行します。
瀧尾神社の始まりははっきりしません。もともとは東山の聾谷(つんぼたに)にあり、武鵜(たけう)ノ社という名称でした。聾谷とは、今の若宮八幡宮のあるあたりです。若宮八幡宮は慶長10年(1605年)に六条醒ヶ井から移転してきました。
瀧尾神社には、今も「聾の社」という別名もあります。
応仁元年(1467年)に応仁文明の乱の兵火によって焼失し、やや北の日吉坂で再建され、多景(たけ)ノ社と改めます。日吉坂は、おおむね今の大谷高校と三十三間堂の間あたりです。
今も瀧尾神社前は大谷高校生の通学路で、朝夕は多くの生徒が行きかいます。
天正14年(1586年)に豊臣秀吉が方広寺大仏殿を創建する際に現在地へと移転し、今の瀧尾神社へと改称しました。
伏見街道と瀧尾神社
京都と伏見を結ぶ伏見街道
瀧尾神社のすぐ西側は、京都と伏見を結ぶメインストリートである伏見街道です。東福寺付近では本町通とも言います。
今も当時のおもかげを残す道路ですが、地元の生活道路として多くの人や車が行きかっています。
瀧尾神社境内の北西には、かつて神猿が住んでいたという「猿松」という大きな松があり、「伏見街道七不思議」のひとつに数えられました。
花洛名勝図会でも、大きな松が描かれています。
松の上には伏見人形の人形屋幸右衛門の手による見ざる言わざる聞かざるの三猿の陶製人形が置かれていました。
今はかつて猿松があったであろうあたりには、瀧尾神社の社務所と神輿祭事を行う昇龍会の会所があり、跡形もありません。
ただ瀧尾神社の本殿前には、かつての猿の像をまねたであろう陶製の猿が置かれています。
碑だけが残る一ノ橋
伏見街道は、瀧尾神社のすぐ北に一ノ橋という橋がかかっていました。
今は橋はありませんが、「伏水街道一之橋址碑」という碑が建っています。伏見街道はいぜんは「伏水街道」とも記載しました。
伏見街道から一ノ橋をさらに南へ250メートルほど進むと、かつては二ノ橋がありました。今の東山陸橋の直下に碑が建っています。
さらに南へ450メートルほど進むと、今も三ノ橋が残っています。三ノ橋がかかる三ノ橋川のすぐ上流には、東福寺の通天橋や臥雲橋、偃月橋がかかっています。
瀧尾神社のすぐ北で一ノ橋がかかっていたのは、一ノ橋川です。今熊野川とも言います。
伏見街道付近では暗渠化されており、川の姿は見えません。
瀧尾神社のすぐ北側の東西の細い道がかつての一ノ橋川です。
一ノ橋川は、滑石街道(醍醐道)の谷を源流とする川です。剱神社前の圓通寺橋がかかる川が一ノ橋川です。
支流の瀧尾川は泉涌寺山内を源流としています。今熊野観音寺前の橋がかかる川が瀧尾川です。
瀧尾神社はもともと上流に位置する泉涌寺と強いつながりがありました。
今は石碑しか残っていない一ノ橋ですが、200メートルほど北東の東山泉小学校のグランドにかつての一ノ橋が移設されています。
2014年に統廃合されるまでは、一橋(いっきょう)小学校でした。1869年開校のとても歴史ある小学校でした。
瀧尾神社と大丸の深いゆかり
大丸の創業者が深く信仰した瀧尾神社
瀧尾神社と非常にゆかりが深く、代々資金援助を行ってきたのが大丸百貨店です。
今の大丸を創業した下村彦右衛門正啓はわずか19歳で家業を継ぎ、宝永3年(1706年)に伏見で古着の行商を始めました。
正啓は毎日毎日まだ暗いうちに伏見を出発して京都へ向かい、もう暗くなってから仕入れたたくさんの品を背負って伏見へと戻りました。
京都と伏見を結ぶ伏見街道脇にある瀧尾神社では、雨の日も風の日も往路も復路も必ず足を止めて参拝し、商売繁盛と家運隆盛を祈っていました。
のちに大丸という商号としたのも、瀧尾神社付近で昼寝をしていたときに大丸紋の手ぬぐいを拾ったのを見て思いついたとも言います。
瀧尾神社のご利益で大丸が創業
享保2年(1717年)についに正啓は伏見の京町八丁目の呉服商の大文字屋を開くことができました。今の大丸百貨店のルーツです。
やがて名古屋、大坂、京都、江戸へも次々と進出し、事業に成功した正啓は、元文3年(1738年)~延享2年(1745年)にかけて瀧尾神社の修復を行いました。正啓の死後も下村家の瀧尾神社への信仰は続き、天保7年(1836年)に今の本殿が完成します。貴船神社の奥社殿を移築したものです。小さな社でしかなかった瀧尾神社が立派な社殿を持つ神社に生まれ変わりました。
これらの大丸との深い縁によって、瀧尾神社は「大丸の宮」「大丸稲荷」とも言われます。
瀧尾神社の本殿の東側には、境内摂社の大丸繁栄稲荷社があります。
両脇には、同じく境内摂社の瀧尾天満宮、金刀比羅宮、愛宕神社、妙見宮の社殿が並んでいます。
絵馬舎の扁額に描かれる大丸の店舗
瀧尾神社境内の南西部にある絵馬舎の北側には絵と写真の大きな額が掲げられています。
左の絵の額は丸に大ののれんかわもわかるとおり、大丸の店舗を描いたものです。
右の写真の絵馬は、大丸京都店を写したものです。
1928年にヴォーリズの設計によって建設された近代建築です。
1964年の2014年の大規模な改装によって外観は変わりましたが、今も店舗として使用されています。
絵馬舎の内部にも、大丸の店舗を描いた額が奉納されています。
よく見たら洋装をしている人の姿もあるので、江戸時代ではなく明治時代くらいの大丸かもしれません。
大丸では瀧尾神社の龍をモチーフとした商品も販売
大丸京都店では、この龍をモチーフにした大判や小判を販売したことがあります。
瀧尾神社で祈祷をしたという大判のお値段はなんと1,818,000円です。
真偽は定かではありませんが、有名な福助人形のモデルは大丸を創業した正啓であるという説もあります。
大きな頭で耳たぶが太く垂れ下がった福々しい顔をしていました。
正啓の顔を映して白扇をもって端座した人形を店頭にすえたところ、大繫盛したのが始まりと言われています。
瀧尾神社の修復工事
ジャッキアップ工法が用いられた大工事
瀧尾神社の本殿は、2021年から大規模な修繕工事に入りました。
社殿が基礎から傾き始めていたため、地盤から強化するという工事です。
通常は社殿を解体する大工事が必要なのですが、瀧尾神社では社殿全体を1.5メートルもジャッキアップするという工法が採用されました。
同時に社殿の彫刻も修復されました。
瀧尾神社修復工事の様子は京都市文化財保護課でも動画が公開されています。
辰年の2024年を前に修復完成
修復工事中は神霊が拝殿へと移され、拝殿が本殿となっていました。
大工事は、辰年の2024年を前にした2023年には完成しました。おそらく辰年にあわせて工期を設定したのでしょう。
瀧尾神社はまた美しい姿を取り戻しました。いよいよ辰年を迎えます。
瀧尾神社の拝観情報
拝観時間 | 日中随時 |
拝観料 | 境内自由 |
住所 | 京都市東山区本町11丁目718 |
アクセス | JR・京阪「東福寺」より徒歩2分 |
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おわりに
コロナ禍も収束し、2024年は久々に何の制限もない新年を迎えます。
お正月の京都は、コロナ前並みかそれ以上の大勢の初詣客で賑わうでしょう。
京都で定番の人気初詣スポットと言えば、伏見稲荷大社、北野天満宮、平安神宮、八坂神社…と次々と名前が挙がります。
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