石田三成の屋敷があった伏見城下の「治部町」を巡る
目次
天下人の豊臣秀吉が晩年に政権の拠点を置いた伏見城には、全国の諸大名の大名屋敷が並びました。
豊臣権で五奉行を務めるなど権勢を誇った石田三成は、伏見市街西郊の治部町と伏見城内の治部少丸などに屋敷がありました。
そのうち今も石田三成の名前が残る「治部町」を紹介します。
石田三成の伏見屋敷があった「治部町」
石田三成は、伏見城下の治部町と桃山町伊賀、伏見城内の治部少丸に屋敷を与えられました。
今も治部町と治部少丸は地名として残っています。
治部町の位置
治部町は、近鉄/京阪丹波橋駅から1.1kmほど西にある東西250m、南北300mほどの小地名です。
東は東高瀬川、西は新堀川通(京都高速)に挟まれています。
「治部町」とは、言うまでもなく石田三成の官職である治部少輔(じぶのしょう)に由来します。
石田三成の屋敷がなくなったのは400年以上前です。歴史の敗者でありながら忌まれることもなく、治部町という町名は連綿として引き継がれてきました。
治部町のすぐ東を流れる東高瀬川が開削されたのは、昭和に入ってからです。東高瀬川に並行する旧高瀬川も慶長16年(1611年)に京都と伏見を結ぶ物流ルートとして開削された運河です。
伏見城の外堀にあたるのは、治部町の東300mほどの位置にある濠川(ほりかわ/ごうかわ)です。
たくさんの大名屋敷が並ぶ伏見城では、治部町のように外堀をこえた位置にまで大名屋敷が広がっていました。
治部町の歴史
周囲に大名屋敷が並んでいた治部町
豊臣政権の拠点として伏見城が築城されると、城下町には全国の諸大名の屋敷が置かれました。
江戸時代に作られた伏見城下の復元図でも、今の治部町の位置に「石田治部少輔三成」と記載されています。
周囲には「浮田中納言(宇喜多秀家)」「大友豊後守(大友義統)」「島津兵庫頭(島地義弘)」「相馬大膳(相馬義胤)」「井伊兵部少輔(井伊直政)」「毛利長門守(毛利輝元か)」などの大名屋敷がずらりと並んでいます。
いわゆる「七将襲撃事件」で登場する伏見城の石田三成屋敷は、治部町の屋敷ではなく伏見城内の治部少丸にあった屋敷です。
伏見廃城後の治部町
治部町は、もともと伏見城下の最西端に位置しました。
関ケ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いでは、城下町のはずれにある治部町の石田三成屋敷はおそらく難を逃れたはずです。
石田三成の敗死により、治部町の石田三成の屋敷は接収されたはずですが、新たに誰かの屋敷地として使われたのかどうかは不明です。
伏見城廃城後の伏見市街はおおむね高瀬川以東に限られ、治部町の周辺は田畑が広がりました。
江戸時代には近隣の北端町、島津町、寝小屋町、毛利町と合わせて毛利治部村となり、伏見廻八ヶ村のひとつを構成しました。
伏見廻八ヶ村は堀内村、向島村、六地蔵村、三栖村、毛利治郎村、景勝村、大亀谷村、深草村からなり、幕府領として伏見奉行の管轄下でした。
旧高旧領取調帳では、毛利治部村の石高は479石でした。毛利治部村ではなく、治部庄村と記載された例もあります。
幕末維新期には、鳥羽伏見の戦いの戦場となり、治部町内の三雲橋でも戦死者が出ました。
明治維新後の1872年には東隣の景勝村と合併し、景勝村の一部となります。景勝村も五大老の一人であった上杉景勝の大名屋敷に由来する町名です。
景勝村は1889年の市制・町村制施行時に伏見町の一部となり、1929年に伏見市となったのちに京都市に編入され、京都市伏見区の一部となりました。
戦後の土地区画整理事業に伴う換地処分で、治部町のうち丹波橋通以北の2割ほどのエリアが毛利町に、南西の1割ほどのエリアが島津町へと編入されて以前よりも狭くなりました。
田畑が広がっていた治部町
赤枠内が現在の治部町です。換地処分までは、北と南のやや広い範囲が治部町でした。
1945年ごろの治部町の空中写真を見ると、部分的に建物があるほかはほぼ田畑が広がっているのがわかります。
治部町の中央付近にある建物は、京都市立京都病院景勝分院です。伏見市の編入に伴い、京都市へと移管された病院です。
老朽化に伴い1952年に廃止され、今はあとかたもありません。
東の東高瀬川は昭和初期に開削されました。東高瀬川の河川部分ももともとは治部町の田畑でした。
東高瀬川のすぐ東に並行する旧高瀬川が治部町と川東町の境界線でした。
東高瀬川にかかる橋梁は三雲橋といいます。今の三雲橋は1988年に架け替えられたものです。
もとは旧高瀬川にかかる橋が三雲橋でした。今は三雲小橋と言います。
三雲橋をとおる東西の道は下鳥羽街道と言います。かつては下鳥羽村と伏見市街を結ぶメインストリートでした。
西丹波橋はまだ架橋されておらず、すぐ北側に1930年に架橋された用人橋が見えます。
海音寺潮五郎の「南国回天記」では用人橋を舞台とした血闘が描かれています。
高度成長時代を経て急速に市街化が始まり、治部町を含む東高瀬川の東にも建物が増えてきます。
西側には新堀川通(油小路通)、北側には丹波橋通の用地が姿を現します。
工業地帯へと生まれ変わった治部町
1984年には治部町を含む一帯は洛南新都心計画の一部となり、京都の新都心としての開発が始まります。
1998年から高度集積地区整備ガイドラインが策定され整備が始まり、2009年には「らくなん進都」と名付けられました。
2008年には京都初の都市高速道路である阪神高速京都線(現第二京阪道路)が開通し、治部町は工場が並ぶ工業地帯へと生まれ変わりました。
2023年には新たな産業を生み出すビジネスパークの創出を目指す「東高瀬川ビジネスパーク構想」の一部となり、今も開発が進められています。
現在の治部町を巡る
治部町は、近鉄と京阪の丹波橋駅から西へ1.1kmほどなので、歩いて15分ほどです。
東西250m、南北300mほどなので、歩いてもすぐ回ることができます。
航空写真を見てわかるとおり、今の治部町は多くが工場によって占められています。
かつての城下町をしのぶものは町名以外何も残っていません。
治部町の町名表示
石田三成の屋敷跡を示す説明板なども何もありません。
「治部町」と記載された表示は、京都市広報板と郵便ポストなどで見ることができます。
もっとも目立つ治部町の表示は、丹波橋通にある「治部町ガレージ」の看板です。
治部町ガレージの隣には、グランドコーポという集合住宅があります。
2020年の国勢調査では、治部町には31世帯50人が住んでいますが、多くがグランドコーポの住人でしょう。
京都市成長産業創造センター
治部町内にあるもっとも著名な施設は京都市成長産業創造センター(ACT京都)です。
ACT京都は、化学分野を中心とした産学連携による研究開発施設です。企業や大学などの多数の研究施設が入居しています。
京都府・市や産業界からの出資で運営されている公益財団法人京都高度技術研究所の施設です。
らくなん進都開発の一環として、2013年にオープンしました。
京都市成長産業創造センター前の郵便ポストには、所在地として治部町の名称が記されています。
「治部町」という表記が確認できるのは、この郵便ポストと前述の京都市広報版、ガレージ看板の3カ所のみでした。
マツイカガク株式会社
治部町内で最も大きな敷地を占めているのは、マツイカガク株式会社です。
金属印刷用インキ業界の国内トップメーカーです。
1994年に同じ伏見区城樋町から治部町へと本社が移転しました。
その他、治部町内には株式会社新京都精機の本社、株式会社田中電機製作所の本社などが並び、工業地帯を形作っています。
北隣の「毛利町」と南隣の「島津町」
北隣の「毛利町」
毛利長門守に由来
治部町の北は毛利町です。東西200m、南北450mほどの治部町より一回り大きい町です。
毛利町は、毛利長門守の大名屋敷に由来する町名です。
伏見廃城後、毛利治部町を構成するなど、おおむね治部町と同じような歴史を歩んできました。
毛利長門守とは、時代としては石田三成と世代の近い毛利輝元が相当します。
毛利輝元は五大老の一人であり、関ケ原の戦いでは西軍の総大将を務めました。
ただ輝元は権中納言などを歴任しているものの、長門守には任官していません。
輝元の嫡男である毛利長門守秀就という可能性もあります。
旧治部町内の下鳥羽収蔵庫
毛利町の南端には、公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所の下鳥羽収蔵庫があります。
前述のとおり、土地区画整理事業に伴う換地処分まで、このあたりは治部町でした。
発掘調査で出土した文化財に特殊な処理を施す作業が行われています。
収蔵庫は通常非公開ですが、まれにイベントで公開されることもあります。
下鳥羽収蔵庫の位置には、1960年まで帰命院火葬場がありました。この付近では、火葬場へとつながる丹波橋通は「葬礼道」とも呼ばれていました。
別に桃山毛利長門町も
なお、伏見には別に桃山毛利長門町という町名があります。
桃山毛利長門町が上屋敷、毛利町が下屋敷でした。
こちらも一般には父の毛利輝元に由来するとされています。
伏見の東西を結ぶ毛利橋通も、間接的な由来となっているのは桃山毛利長門町の方です。
南隣の「島津町」
島津兵庫に由来
治部町の南は島津町です。東西200m、南北250mほどの治部町より一回り小さな町名です。
島津町は島津兵庫に由来します。
島津町は毛利治部村には属さず、今も住吉学区ではなく板橋学区に属するなど、治部町とはやや異なる歴史を歩んできました。
島津兵庫とは、薩摩藩の大大名である島津兵庫頭義弘のことです。
関ケ原の戦いでは西軍に属し、敵中突破の「島津の退き口」を成功させた戦国時代でも有数の猛将です。
旧治部町内のロードサイト店舗
島津町の北西部は、前述のとおり土地区画整理事業に伴う換地処分以前は治部町でした。
今は新堀川通沿いのロードサイド店舗として、洋服の青山やハーレーダビッドソンの店舗などが並びます。
別に桃山町島津も
なお、伏見には別に桃山町島津という町名があります。
こちらは島津右馬頭の屋敷と伝わります。
同時代の島津右馬頭と言えば、島津義弘のいとこで初代佐土原藩主である島津以久が該当します。
ただ、島津分家の屋敷としては立派過ぎるので、実際は島津本件の下屋敷が島津町、上屋敷が桃山町島津である可能性が高いと考えられています。
伏見城について
秀吉政権の本拠となった伏見城
天正19年(1591年)、関白の位を甥で養子の秀次に譲った豊臣秀吉は、文禄元年(1592年)に隠居所として伏見の指月の丘に屋敷を築きました。
当初は政権の拠点ではなく、私的な隠居屋敷として作られました。
文禄4年(1595年)に秀次事件が起こり、再度秀吉が豊臣政権を率いることになります。秀吉は豊臣政権の京都における拠点であった聚楽第を完全に破却し、新たな政権の拠点として伏見の隠居屋敷を城郭として大改修を加えます。一般に「指月伏見城」と呼ばれる城です。
文禄5年(1596年)に慶長伏見地震が起こり、指月伏見城は大きな被害を受けました。
秀吉はただちに木幡山に伏見城を再建することを決め、突貫工事で1年もたたない慶長2年(1597年)には天守をはじめとする伏見城の主要部が完成しました。一般に「木幡山伏見城」と言われます。
秀吉は慶長3年(1598年)に伏見城で亡くなるまで伏見を拠点とし、全国の諸大名を伏見の城下町に屋敷を与えて住まわせました。
なお、「木幡」とは現在は伏見城から南東へ2kmほどの宇治市内の地名ですが、古くは付近一帯の広域地名でした。
「木幡山」は桃山丘陵の南端部の総称です。狭義には伏見城本丸があった標高105mの山を指します。
現在も「木幡」には「こはた」「こばた」「こわた」の読みが混在しています。「こわた」と「こはた」は古文書でも混在しており、八幡が「やわた」「やはた」の2つの読みがあるのと同じです。
行政上の正しい読みは実はどちらでもなく「こばた」ですが、一般には「こはた」と呼ばれることが優勢で、「こわた」と呼ばれることも少なくありません。
「木幡山伏見城」の読みも「こはたやま」と「こわたやま」が混在しています。例えば京都市埋蔵文化財研究所は「こわたやま」と呼んでおり、京都市歴史資料館では「こはたやま」と呼んでいる例もあります。
伏見城で始まった徳川幕府
秀吉の死後、遺言により豊臣政権の政務を託された徳川家康が伏見城へと入りました。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは、前哨戦として西軍は伏見城に攻めかかりました。家康に伏見駐留部隊として配置された鳥居元忠らは、奮戦の末に落城しました。
わずか2,300人で13日もの間西軍の主力を一手に引き受けて時間稼ぎに成功し、関ケ原での東軍勝利に大きく貢献しました。
関ケ原で勝利し覇権を握った家康は焼亡した伏見城の再建にとりかかり、慶長6年(1601年)に伏見城に入りました。これを徳川期伏見城と言います。
以後、慶長12年(1607年)まで伏見城が家康の事実上の居城として機能します。
慶長8年(1603年)には家康が伏見城で将軍宣下を受け、のちに江戸幕府と呼ばれる政権を開きます。当時の家康は江戸ではなく伏見を主たる拠点としていたことから、江戸幕府ではなく伏見幕府と言うのが正確であるとされます。
徳川政権の拠点として、引き続き伏見城下町には全国の大名屋敷が置かれます。石田三成など関ケ原の戦いで没落した大名の屋敷跡は、あらたに譜代大名などに与えられました。
廃城後の伏見城
慶長10年(1605年)には徳川秀忠が伏見城で将軍宣下を受けます。大御所となってからも実権を握っていた家康も慶長12年(1607年)に伏見城から駿府城へと移り、伏見が日本の政治の中心地であった時代は10年余りで終わりました。
その後も大規模な大名の転封や重要法令の発令は将軍が上洛して伏見城で行うことが慣例となるなど、伏見城は江戸城に次ぐ幕府の重要拠点として機能します。
元和9年(1623年)に徳川家光が伏見城で将軍宣下を受けたのを最後に伏見城は廃城となり、伏見城の機能は二条城や大坂城などへと移されました。
ました。多くの建物は移築され、石垣は徹底的に破壊されるなど大規模な城割りが行われました。
廃城後の伏見城跡はやがて桃の果樹林として利用され、伏見城のあった木幡山一帯は「桃山」と呼ばれるようになりました。
大名屋敷も一部をのぞき廃止され、商人地や田畑として再利用されます。
1912年には明治天皇の伏見桃山陵が築造され、参道などの一部をのぞき伏見城跡のほとんどは立ち入りが禁止となりました。
伏見城下町には、今も後述の治部町など大名屋敷に由来する町名がたくさん残っています。
おわりに
石田三成とMKタクシー
MKタクシーは、石田三成を応援しています。
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