勤続45年、今のMKタクシーを築いたレジェンドの品田指導員が大切にしてきたこと
目次
MKタクシーは今年創業60年目を迎えました。
そのMKに45年間勤め、昨年78歳の誕生日を機に退職した、八幡営業所の指導員・品田和男。
入社当時は京都でも質が悪いタクシーだったMKを、今の姿に築きあげたレジェンドともいうべき功労者である品田指導員。
退職を前に、懐かしい思い出話も交えながら、大切にしてきた信念を聞きました。
品田和男の略歴
- 1940年11月 新潟県で生まれる
- 1973年5月 桂タクシー(MKタクシーの前身)に入社
労働組合書記長、整備部長、渉外部長などを経て - 2008年5月 八幡営業所の指導員に就任
- 2018年11月 MKタクシーを退職
インタビューは退職を前にした2018年11月に行いました。
充実したMKタクシーの45年間を振り返る
45年間の勤務を振り返ると、充実したMK人生でした。
不平不満を考える暇もなく、次から次へと新しいところへ行って、新しいものを作り出してきたと感じます。
京都でも最低レベルの評価だったMK
私がMKタクシーの前身のひとつである桂タクシーに入社したのは1973年です。
エムケイ株式会社となったのは、4年後の1977年にミナミタクシーと桂タクシーが合併して、社名変更してからです。
私が入社した桂タクシーは、京都の中でもお客様の評価は最低レベルでした。
どんなに頑張って車を走らせてもお客様から避けられ、後ろの他社タクシーがお客様を乗せていくという状況でした。
この状況を打破しようと動いたのはドライバー自身です。
お客様を確保するために自分たちで駅前で街頭演説したり、タスキをかけてチラシを配ったり、企業へ営業に回ったりしたものです。
ドライバーとか管理職とか関係なく一体となっていました。
忙しい日々でしたが、今以上に、仕事をしていて達成感がありました。
人生をかけて、覚悟してタクシー業界に入ったからこそできたのでしょう。
仕事は厳しかったのですが、その分収入もよくなったのです。
入社当初、周りでも月給3~4万円が当たり前(当時のMK小型初乗は150円)だったのが、数年経つとひと月で38万円を売上げ、30万円の給与(MK初乗270円の時代)を持って帰りました。
仲間と一丸となって「選ばれるMKに」
その後、中型タクシー部門の創設に関わり、また、工事中の市バスの代替輸送としてMKタクシーが運行すると、これが評判となってその後、京都市との運行管理契約・養護学校のバス送迎を任されることに。
お客様に喜んでいただいてこそのタクシーであると「タクシーを市民に返す運動」など、今から考えると泥臭いと言われるかもしれません。
ですが今、「MKは選ばれている」と有頂天になってはいけません。
我々の時代の謙虚さも必要でしょう。
当時はみんなが必死でやっていたものです。
すごいことをやってきたという自負
MKのすごさは、社員一丸となって動けたことです。
いくつか印象に残った出来事がありますが、例えば、1978年に、社員全員が日赤の救急員資格を取得しようとしたとき。
当時はタクシードライバーなんて見下される存在でしたから、自分たちはすごいことをやっているという自信につながりました。
ですから20時間以上の講義も皆が目を輝かせて受けていましたし、脱落したものはいませんでした。
1984年、MKが運賃値下げ申請を行ったときのこと。
社員皆で市民の声を集めることにしました。約8万名もの署名を集めることができたのです。
私がドライバー代表としてその署名を近畿運輸局に提出したときは、誇らしく思いました。
睡眠時間を削って同業他社の妨害と戦う
そして最も苦労し印象に残っているのが、1989年、大阪に「ステーションMK」というMKタクシー待合施設を建てたときことです。
お客様を奪われてなるまいと大阪の同業他社から、ものすごい反対運動が起こりました。
私は、当時労働組合の書記長として毎日対応に追われました。
MKの車がパンクさせられるなど嫌がらせは後を絶ちません。
当時私の睡眠時間は3~4時間。それでも、現場のドライバーの我慢、組合員の協力を思うと耐えられました。
大阪業界との交渉に当たったときには、金で解決させようとの話を持ちかけられましたが、それまでのドライバーの苦労を見ていたのできっぱり断りました。
ついには、大阪他社の側が引くことになりました。
MKの団結力が、数や金に勝る大連合を押し退けたのです。
社員皆が将来どうあるべきか理想を描き、会社や家族(MK婦人会)とその理想のために、3者で強固なスクラムを組んできたのです。
創業者・青木定雄との思い出
2017年に逝去した創業者・青木定雄(従業員は青木オーナーと呼んでいた)との思い出話は尽きません。
1年目の新人でも大事にしてくれる
入社1年目にマイホームが欲しいと思ったときのことです。
会社が住宅地一画を購入して社員に分譲したMK団地の話も聞いていました。
でもそれは私の入社2年前のことで、もう空きがありません。
そこで同僚と一緒に青木オーナーへ相談に行きました。
するとその場で、不動産会社の社長に連絡し、値引き交渉や、頭金やローンの話を進めるのです。
1年目の新人にそこまでしてもらえるなんて、思ってもみませんでした。
今も鮮明に思い出す雪のMKのりば
今でも、寒い季節を迎えると、年末の雪の降るなかでMKのりばで青木オーナーとラーメン・うどんを食べて過ごしたことを思い出します。
鮮明に覚えているというのは、当時の厳しい環境を青木オーナーや仲間と一緒に乗り越えたという心境と、MKのりばの景色がちょうど重なったからでしょう。
自分の体より社員教育が優先
私が渉外部長だった頃、青木オーナーが入院したと聞いたのでお見舞に行ったことがあります。
しかし、病室に姿がありません。
看護師さんは「外出禁止で安静にするよう指示が出ているので、そんなはずは…」と言うのですが、どこを探しても見当たりません。
なんと姿を見たのは御室の研修会場でした。
MKでは、現在でも春と秋に全社員対象の大規模な定期研修を開催していますが、当時は御室(仁和寺)で行っていました。
そのときは青木オーナーを叱りましたね。
「体を大切にしないといけません」と。
時には覚悟をもって与えられた仕事に専念
青木オーナーとはよく喧嘩したものです。
逆に、一番きつく怒られたことの一つが東京MKを設立してすぐのことです。
青木オーナーに「東京MKを見て来い」と指示され、一通り部署を見回り3~4日間の滞在で帰ってきたときです。
「何で帰ってきたんや」と厳しく追及されました。
私が京都の渉外部長という立場で仕事もあったので、ちょっとした視察だけだと思ったのですが、青木オーナーの意図は違ったのです。
大都市東京進出で人知れず不安や心配を抱えていたので、私に軌道に乗るまで見ろということだったのでしょう。
そのことを分かっていたなら、私も家族に伝え長期間の東京暮らしを覚悟して行ったのにと後悔しました。
青木オーナーも私に遠慮してはっきり言えなかったのかもしれませんね。
その時の衝撃が大きかったので、今でもその当時暮らした東京の寮の部屋番号を覚えています。
渉外部長の仕事もたまり、また周りの方の働きかけもあり、2ヶ月後京都に戻りました。
2ヶ月間の東京MKでやれたことといえば、病院の保証金の問題です。
社員が病院に入ると5~10万円の保証金を求められたこともあります。
京都で契約していた保険会社の費用前払いサービスのような仕組みは、当時東京MKではありませんでしたから。
MKの会社信用でもって保証金額を減らしてもらうなど、社員が少しでも安心して病院に入れるようにしました。
安全運転指導と新人指導
ドライバーの目線で制度設計や指導
安全運転指導を担当する渉外部長を務めたときには、安全運転の新たな取組みを次々を生み出しました。
事故・違反・苦情のないドライバーを「SD優良社員」として表彰する制度を作りました。
ドライバー出身の私だから提案できたのだと思います。
ドライバーあっての会社ですから、ドライバーのやる気が出るように、罰を設けるだけではだめだと考えました。
今でも続く制度で、多くの社員が表彰されることを目指して努力をするというよい効果が出ています。
取引先企業での取り組みをヒントに考えたのが「多段発進」です。
これも今日まで続くもので、安全運転のスローガンに取り入れ唱和させ、毎日出庫時に実践させて送り出します。
習慣にすることが大切です。
制度設計や指導にあたり大切なのは、ドライバーの立場になることです。
あなたのために真剣に怒るということが必要です。
中途半端に怒るのでは伝わりませんし、かえって反感を買うものです。
また、年の功で、この人にはどこまで強く怒って大丈夫かがわかるようになってきました。
厳しくしすぎて、その人をつぶしてしまってはいけませんから、そのポイント、その人の個性を見抜かないといけません。
命を預かる仕事 体調管理が大切
ドライバーに一番大切なことはと言うと「体調管理」です。
少し厳しい言い方をすれば、体調管理ができなければドライバーとして失格です。
人の命を預かる仕事ですから、健康でないとできません。
私自身、ドライバー時代に病気やけがをした覚えがなく、おかげで無事故でした。
最もやりがいがあった新人指導
様々な部署で勤務したなかで一番やりがいを感じたのは、新人教育部署である「教習センター」です。
当時は、入社した人を免許センターでの2種免許試験に合格させるという方法でした。
1ヶ月で合格させるために教官である私も必死でした。
教習生のやる気がみなぎっていたところがよかったです。
私自身は細かいところまでうるさく言っていましたから、鬼教官と言われていましたが。
その教育法は、教習生と路上教習に出るときは、住宅地を好んで選びました。
各交差点で一時停止する癖をつけるのに効果的で、またいろんな注意を払う必要があると勉強になりますから。
おわりに
創業者と真っ向から意見をぶつけ言い争ったり、MKを取り巻く環境も今より厳しいなかでの仕事だったりしたかもしれません。
しかし品田指導員から「辛かった、しんどかった」という言葉は一度も出てきませんでした。
これからも品田和男さんは前向きに新しい歩みを続けていきます。
私たちMKタクシーは、これまで品田指導員や青木オーナーが長い間かけて築き上げてきたものを守り続けていきます。