アメリカ反戦兵士たちに寄り添うために⑦アメリカから届いた日本人への手紙|MK新聞連載記事

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アメリカ反戦兵士たちに寄り添うために⑦アメリカから届いた日本人への手紙|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、ジャーナリストの加藤勝美氏による連載記事を掲載しています。
MK新聞2019年7月1日号の掲載記事です。

MK新聞の連載記事「アメリカ反戦兵士たちに寄り添うために」についてアメリカ在住のレイチェル・クラークさんとマイク・ヘイスティさんからこの2019年5月に写真と手紙が届きました。
それらを「特別編」として紹介させていただきます。(MK新聞編集部)

 

 

アメリカ反戦兵士たちに寄り添うために⑦アメリカから届いた日本人への手紙

「日本の読者のみなさまへ」レイチェル・クラーク

この度はご縁があって、MK新聞に記事を書いていらっしゃる加藤勝美様よりお話を頂き、これまでのベテランズのストーリーに加えて、私の拙文まで載せていただけることになり、大変有り難く、光栄に存じます。
MK新聞様、加藤勝美様に、心より感謝いたします。

 

初めての沖縄

さて、私とベテランズ(米国では退役軍人や元軍人を指す言葉)との出会いはほんの数年前のことでした。
私は、2014年の春に初めて沖縄県名護市の稲嶺進市長(当時)の同行通訳をニューヨークとワシントンDCで勤めさせていただき、翌年の春に3度目のご訪米をなさった同市長が、「ワシントンDCで米国のNGOのリーダーを前に沖縄が抱える米軍基地問題についてワークショップを開きたいので、その準備と当日の通訳をやってほしい」とおっしゃるので、にわかプロジェクトチームを作ってリサーチしました。
ご招待したNGOリーダーの中に、ベテランズフォーピース(VFP)の代表もいました。この時がVFPという団体との初対面でした。

ワークショップの最後に「みなさん、どうぞ沖縄に現実を見に来てください。お願いします。」と稲嶺市長がおっしゃり、VFPのタラク・カウフ理事(当時)の、「レイチェル、今年の冬、一緒に来てくれるよな? 通訳が必要なんだ。金は出せないが、達成感はあるぞ。」というお誘いに二つ返事で行くことにしました。

 

軍人もまた被害者

ワークショップが春で、VFPの沖縄使節団が冬だったのですが、なんと夏に私の人生を大きく変えるお仕事がもう一つ舞い込んできました。
2015年は戦後70年の節目で、各メディアが色々な特集を組んでいた中、「戦争とトラウマ」というテーマに取り組んでいらした朝日新聞の松下秀雄氏から、「米国で様々なベテランズにインタビューしたいので、アポ取りと通訳を」というご依頼を頂きました。
まさに渡に船! 松下さんと全米を巡りあちこちでベトナム戦争、イラク-アフガン戦争に派遣された元兵士たちと、退役軍人省の広報のトップ、退役軍人の心の問題に取り組む大学の先生、実際に彼らの治療に当たっているドクターたちにインタビューをしまくり、最後にサンディエゴのVFP年次総会に行って、同団体のPTSD問題の責任者、サム・コールマン博士にもお話を伺いました。

つまり、沖縄のことを学び、元軍人たちが抱える様々な問題を学んで、彼らも戦争の被害者であるという認識に至ったのです。
そして私自身も元軍人たちのNGOのメンバーとなり、使節団の一人として彼らと一緒に沖縄に行きました。
早朝から夜遅くまで、あちこち駆けずり回って抗議活動や交流イベント、シンポジウムなどをこなす中、私は同時通訳機の子機をそれぞれのメンバーに渡して、進行中の話を英語で彼らに同時通訳をしていました。
もちろんあの1週間は、沖縄のメディアも毎日VFPの活動を歓迎・報道してくださいました。
ところが、本土メディアは全く何事もないように無視でした。
「これは沖縄問題じゃない、日米安保と憲法第9条の矛盾を沖縄にずっと押し付けてきた本土の問題なのに」と感じた私は、本土で何かをしなければならない衝動に狩られました。
そこで始めたのが、「VFP スピーキングツアー」で、最近の戦争を体験的に知る若い戦争世代を日本に連れて行って、70年前の戦争と今の戦争がどう違うのか、どんな問題を抱えているのか、直接戦争に行った人の話を聞いてもらう機会を日本全国に広め、「戦争のリアル」を知ってもらおう、と思いついたのでした。
別に日本の政府に口出しするつもりはありませんが、あまりにも極端に偏った情報のバランスを取る上で、お役に立てる機会を作り、その上で、自衛隊の海外派遣も沖縄を含む各地の米軍基地についても決断はあくまで日本のみなさま次第、というスタンスで2016年の秋から始めました。

 

謝罪をしてから

2016年の11月は、折しも自衛隊の海外派遣が公に行われることになり、関心も高まっていました。
沖縄使節団の時のように、朝から晩までスケジュールを組み、13日間に27イベントをこなし、通訳もコーディネーターもマネージャーも兼任の私は2日ごとに徹夜をするような日々で疲労困憊していましたが、登壇者の2人の精神的疲労にあまり気がつかず、徹底的に疲れさせてしまいました。
理屈ではわかっていても、なかなかPTSDに苦しむ人の気持ちを理解できなかった自分を恥じました。
それでも、マイク・ヘインズとローリー・ファニングは見事に先駆者として次に続く参加者のためにしっかりと土台を築いてくれました。
広島・長崎の原爆投下、日本中を焼け野原にした空爆、いまだに沖縄に米軍が駐留していることに対し必ず謝罪してから、講演を始めます。
それが、本当に平和を願う米国市民の取るべき道だからです。歴代の大統領や、米国政府機関でもないシンクタンクが日本に対して威圧的に語る内容は、決して私たち一般市民の代弁ではない、ということを、日本のみなさんに知っていただきたいのです。
2年目はぐっとイベントの数を減らし、3年目は、全く別の2人を選んで訪日しました。
そのうちの1人が、マイク・ヘイスティ、ベトナム戦争の退役軍人でした。
初めてのベトナム戦争ベテランの参加は、未知数が大きかったですが、いい意味で私に新しい視点をたくさん教えてくれました。

 

ポスト9・11世代へ

まず、日本の受け入れ団体の中心が今もベトナム戦争世代であること。
マイクおじさんの訪日は、彼らにエンタープライズ時代の思い出を呼び覚まし、マイクの父親の話は、彼らの情熱と怒りを再び掻き立てました。
次に、2001年9月11日の同時多発テロからすでに17年も経過しており、あの後生まれた子どもたちが米軍に入隊する時期になっていることです。
世界中に敵を作り、世界中と戦争をし、それが世界中に「自由と民主主義」を広めることだ、と信じ込まされて育っている世代が、二極化によるさらなる貧困層の広がりと洗脳教育のおかげで軍隊しか選択肢が無いような環境で高校卒業を迎えるのです。
第3に、イラク戦争世代のネイサン・ルイスが、過去70年間の反戦運動を学び、自分は「ゆっくりと確実に平和文化を築きたい」という思いでアートを通じた平和活動の大切さを教えてくれたこと。
これは、初回と2年目にマイク・ヘインズが語った内容と一致したコンセプトです。
マイクは「現状を改めるように説得するよりは、むしろ『それは時代遅れでもっと新しいやり方があるよ』、と新しいコンセプトを示す方が変革はスムーズに行く」と説いていました。
そして、最後に、私自身のミッションが見えてきたことです。
ベトナム戦争世代とイラク戦争世代の間には、約40年の時間的距離があります。
その間にも戦争に行った世代はありますが、まだ知られていませんし、絶対数も少ないです。
同じ体験をしながら「声」が届かない人たちがいます。
私もこの間の世代で、戦争経験はありませんが、日本の高度経済成長とバブルを知る世代です。
「戦後は終わった」とか、「平和ボケ」などという表現をよく耳にした世代です。それらがどれほど沖縄の人たちの心を傷つけていたかも知らずに。
昨年、ますます情熱を燃やすマイクおじさんと、彼をきちんとリスペクトしながらも自分の立ち位置をしっかりと見極めているネイサンと一緒に日本全国を旅してわかったことは、私や私の世代は、だんだんと亡くなって行くベトナム戦争世代とその後に続くイラク−アフガン戦争世代がフルに活動できるようになるまで、間の接着剤になると同時に、「フェイクニュース」と「プロパガンダ」に翻弄されながら育っているポスト9・11世代に真実を伝えることだ、と気づきました。

私が2010年から関わっている核反対運動と、核兵器に反対するVFPには共通の理念があり、合わせてネットワークの拡大と共に、平和の文化構築の拡散に尽力していくつもりです。

最後に日本のみなさまに一言。
「平和」は素晴らしいことです。それに「ボケ」という言葉をつけたのは、きっと平和になって武器が売れなくなることを懸念する一部の人たちです。
「平和ボケ」よりも「戦争中毒」の方がはるかに問題です。この「戦争中毒」の治療に、どうぞご協力をお願いいたします。

レイチェル・クラーク 拝

 

ヒロシマが語る米国の消せない罪

1945年8月6日、米国は日本の広島に原爆を投下し、14万人を殺害した。
3日後の1945年8月9日、もう一つの原爆が長崎に投下され、7万人以上を殺した。
どちらの都市も大多数が民間人だった。この狂気の野蛮さ、全面戦争という恐ろしい現実は、想像を絶するものだった。
ほとんどの米国人が知らない事実もある。
1945年3月から8月にかけて、日本の67都市に米国が投下したナパーム弾で100万人が殺され、この壊滅的な地獄絵の後には、1,500万人のホームレスが残された。
原爆は人類史上最悪の戦争犯罪だった。
ただ敵兵を殺すだけでは、和平交渉のテーブルに敵を連れてくることはできない。
最終的にそれを実現するためには、無実の民間人を殺さなければならない。
原爆を生きぬいた人々は、核戦争について強力なビジョンを持っていた。
1954年、米国はマーシャル諸島で広島原爆の1,000倍以上の水素爆弾を爆発させた。日本の人々は泣いた。

マイク・ヘイスティー、ベトナム戦争帰還兵

Hiroshame-a

On August 6, 1945, the United States dropped the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, killing 140,000 people. Three days later, on August 9, 1945, another Atomic Bomb was dropped on Nagasaki, killing over 70,000 people. The vast majority in both cities were civilians. The barbarity of this madness went beyond the inconceivability of the horrifying reality of Total War. Few Americans are aware that their country dropped a firestorm of Napalm on 67 Japanese cities from March – August 1945, causing a million deaths. The inferno of annihilation left 15 million homeless.

The Atomic Bombs were the worst war crimes ever committed in human history. You do not bring the enemy to the peace table by just killing military combatants. You ultimately bring the enemy to the peace table by murdering innocent civilians. Those who survived the Atomic Bombs had a powerful vision of what nuclear war would look like. In 1954, the U.S. detonated a Hydrogen Bomb in the Marshall Islands that was 1,000 times greater than Hiroshima. The Japanese people wepted.
Mike Hastie Viet Nam Veteran

Nagasaki Memorial

Every time the U.S. Government detonated another Nuclear Weapon, the Japanese people saw the end of humanity. No other country in the world has this powerful vision into Total War Annihilation. These school girls are deeply connected to this truth.

 

VFPが作った新聞

新聞(全16ページ)のタイトルは「休戦記念日を守れ」。この新聞の最終面には「平和を遂行せよ」の横断幕を掲げてデモをするVFPの人たちの写真がある

新聞(全16ページ)のタイトルは「休戦記念日を守れ」。この新聞の最終面には「平和を遂行せよ」の横断幕を掲げてデモをするVFPの人たちの写真がある

ベテランズフォーピース(VFP:平和のための退役軍人)は組織の創設以来、休戦日を祝ってきました。
100年前、世界は、平和を世界共通の原則として祝いました。
最初の第一次世界大戦は終わったばかりで、国々は総じてすべての戦争の終結を求めました。
休戦記念日が生まれ、「世界平和のために献身し、祝われる日」として指定されました。
ところが、第二次世界大戦後、米国議会は11月11日を退役軍人の日として改名することを決めました。
戦士を称えることは、すぐに軍事と栄光の戦争を称えることに変わりました。
休戦の日は、平和の日から軍国主義の日に変わりました。
平和のための日という11月11日の元の意味を掲げ、軍国主義ではなく平和を祝うことが、犠牲者を尊重するための最善の方法です。
これまで以上に、世界は危機的な瞬間に直面しています。世界中で緊張が高まり、米国は目に見えないところで、複数の国で軍事的に関与しています。私たちは、全世界を危険にさらすような無謀な軍事介入をやめるように政府に圧力をかけなければなりません。
私たちは平和の文化を築く必要があります。
この休戦記念日に、VFPは、米国国民に対し、国内外で、戦争に反対し、正義と平和を求めるように呼びかけます。
すべての抑圧的かつ暴力的な政策の終結を求め、そしてすべての人々の平等を求めます。

 

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「MK新聞」は月1回発行で、京都をはじめMKタクシーが走る各地の情報を発信する情報紙です。
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ジャーナリスト。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

1985年以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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