水俣病を告発しつづけた 故・原田正純さんを悼む〈上〉|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
水俣病を告発しつづけた 故・原田正純さんを悼む記事です。
MK新聞2012年9月1日号の掲載記事です。
2012年6月12日、水俣病問題の先頭を走り続けた医師・原田正純氏が、急性骨髄性白血病で亡くなられました。77歳でした。
本紙では1999年8月、原田さんの大阪公演をもとにフリージャーナリスト・加藤勝美氏が執筆した記事を掲載いたしました。
追悼のため、同記事を掲載いたします。(編集部)
ミナマタはまだ終わっていない
水俣は終わったのか。
ケニアではこんなことがある。女性で髪の毛の水銀値が異常に高い人がいたが、この人は肌を白くするという水銀入りの石鹸を2年間使っていた。
少しは白くなったが、シミが出て陽に当たるとピリピリし、呼吸が苦しくなり、汗が多く出るという症状になった。
この石鹸、ケニアで沢山売られているという。そして、世界各地でメチル水銀による水俣病が発生している。
4年前の1995年9月、政府与党は水俣病患者の補償問題について最終解決案を決定し、1997年には熊本県知事が水俣湾安全宣言を行って湾内の仕切り網を撤去した。
しかし、「水俣病事件は終わっていない」と、1999年9月4日から16日間、大阪南港・ATCミュージアムで「水俣おおさか展」が開かれることになり、それに先立って4月9日、熊本大学医学部教員だった原田正純さん(1934年、鹿児島県生まれ)が講演をした。
原田さんは4年前の“和解”にはあまり賛成ではなかった。
その理由は、20数年間そのために闘ってきた、企業と行政の責任を認めさせること、被害者が水俣病であることを認めさせること、この2つがあいまいにされたままだからだ。
「しかし、患者さんを責めることは出来ない。環境庁長官や官僚はみな代わるけれども、患者さんは代われない。一次訴訟の時はチッソ側に立つ学者は1人もいなかったが、国を巻き込んだ途端、学者が増えた。患者にはお金がない。力と金がある方に控訴権があるのはおかしい」
1956(昭和31)年、3歳と5歳の女児が“奇病”でチッソ付属病院に入院、これが水俣病の公式発見とされており、3歳の子は言葉を失ったまま現在45歳になった。
その後次々に患者が発見されたが、この病気の特徴が明らかになったのは1958年頃になってからだった。
それは視野狭窄(きょうさく)、感覚障害、運動失調、言語障害、聴力障害とされ、死んだ患者の解剖で脳の異常が明らかとなり、世界中の文献調査によって、1940年、イギリスのメチル水銀農薬工場で起きた中毒事件の患者の解剖所見と一致した(いわゆるハンター・ラッセル症候群)。
1959年にはチッソ工場排水中のメチル水銀が原因とされた。
「イギリスの場合は製造中に吸ったものですが、水俣病は環境汚染が食物連鎖を通じて人間に起きたもので、それをきちんと確認すれば、同じ魚を食べた人は最低20万人いたから。それらの人達を見ていくべきだった」
1959年暮れ、チッソ患者互助会との間で見舞金契約が交わされ、翌年2月には水俣病患者審査協議会が診断しなければ水俣病とは認めないことになった。
「この時の病像論は原因究明のための病像論そのままで、補償金に該当するかどうか狭く狭く括ったため、重症患者しか水俣病にならなくなったのです」
この狭い病像論を打ち破ったのが1965年、新潟・阿賀野川の第二水俣病発見だった。
「僕らはびっくりしたわけです。チッソのアセドアルデヒド工場からメチル水銀が出て、重症患者が出たことが分かったのだから、業界、行政が対策をしたと思っていたのですが、この時、初めて通産省が各企業に水銀の取り扱いについて指導をした。つまり、原因を明らかにしたことが全く生かされてなかった。新潟水俣病に国の責任がないなど信じられない。チッソと同じ工場が60㌔下流の漁村に患者を生み出した。昭和電工鹿瀬工場は内海の水俣と違って川の流れが速いし、アッという間に日本海に流れるからいいだろうと考えた。しかし、川の出口に魚がいて、潮が満ち引きし、魚が水銀をため込む。水銀は川を遡ら(さかのぼ)ないが、魚は遡る」
新潟では汚染がどれだけ広がっているかを明らかにするための病像が作られた。
汚染された漁村の1万人ほどの人たちにアンケートを行い、水俣病らしい訴えがある人を臨床チェックし、一挙に200数十人の患者を見つけ出した。
毛髪の水銀50ppm以上と、感覚障害の組み合わせで考えたもので、熊本の水俣病より広くとらえられていた。
この時熊本では121人だけしか水俣病とされていなかった。
一方、水俣では患者が差別を受ける。
原田さんたちが60年から61年頃、交通の不便な漁村へ調査に行くと患者は雨戸を閉めて出てこない。
「あいつらのお陰で魚が売れなくなった」と言われるからだ。
冷蔵庫がなく、魚はその日のうちに食べる。あとは芋。どこの家もメニューは同じ。
「1人患者が発見されれば、後の人はいわば“保菌者”。病気のひどさ、貧しさ、差別のひどさがショックでした。診察も拒否されました」
そして、1971年8月、不知火海ではなく、有明海で漁をする有明町の住民検診で、第三水俣病が発見されたが、環境庁は「感覚障害と運動失調は首の骨が曲がっているため」、「言葉の不明瞭は入れ歯のため」、「耳が聞こえないのは老人性」、「視野狭窄はヒステリー」とし、水俣病を否定した。
症状をバラバラにし、他の病気で水俣病を否定していくこの立場がこれ以後、環境庁の“教科書”となる。
<参考文献>原田正純『水俣病』(岩波新書、1972年)、『水俣病は終わっていない』(同、1985年)、『水俣病が映す世界』(日本評論社、1987年)など多数。宮澤信雄『水俣病事件四十年』(葦書房、1997年)
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について
ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。
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1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
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