水俣病50年、果たして終わりはあるのか?〈上〉|MK新聞連載記事
MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
水俣病50年、果たして終わりはあるのか?の記事です。
MK新聞2011年3月1日号の掲載記事です。
水俣病50年、果たして終わりはあるのか?
2011年1月8日(土)から9日(日)にかけて水俣市で「水俣病事件研究交流集会」が開かれた。今年で6回目になる。
集会のテーマは多岐にわたり、水俣の一漁村の民俗、原子力発電所立地との関わり、訴訟と補償制度、患者の看護、福祉相談、国際的水銀問題、水俣のまちづくり、患者救済とチッソ分社化などで、発表者は学者、医師、弁護士、市民など約20人、1人の発表が質疑を含めて30分、参加者は報道関係者を含めて約150人。
それは救済基準の拡大か?
最近は全国紙やTVで水俣問題が取り上げられる機会はほとんどなくなっている。
それはおそらく2009(平成21)年7月に「特措法」(水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法)が成立し、今年の5月から救済手続きが開始されることになっているのが大きな理由だろう。
この特措法は従来の救済基準となる四肢の感覚障害に加えて、①口周辺の感覚障害、②全身性の感覚障害、③二点識別覚、④視野狭窄――の4項目を加え、患者の一部とマスメディアはこれを「基準の拡大」と歓迎した。
しかし、①②はたいてい「四肢の感覚障害」と合併していて、実際には基準の拡大とはならず、④の視野狭窄が水俣病単独で現れることは少ない。
まして③の二点識別覚は検査すらなされていない。
この事実について、熊本学園大学水俣学研究センター『水俣学研究』第2号(2010年3月)は「極めて悪質な欺瞞に満ちた内容」(62ページ)と強く批判している。
それだけではなく、この特措法は加害企業チッソの分社化とセットになっていて、救済対象者の認定業務を3年をめどに打ち切ることになっている。
特措法と水俣市
報告者の1人、大嶽弥生さんは「特措法が制定されて以来、水俣市役所内部は混乱しているのではないか。環境省から次々と指示され、時間をかけて考える余裕もないようだ。“地域振興”とは名ばかりで、水俣を混乱させるばかりだ。本来なら、行政職員と一緒に現場を見て熱く議論し、多くの市民が理解し環境保全行動に結びつくようなことをしたいのに、いつの間にか関係職員の姿はなく、残念で虚しい」と発言した。
地域振興に関しては環境省主導で昨年10月に「みなまた環境まちづくり研究会」が発足したが、26名の委員のうち、水俣の関係者としてはチッソ水俣本部長、肥後銀行水俣支店長、水俣商工会議所会頭、水俣自然学校事務局長(女性)の4人、座長は大西隆・東京大学大学院工学系研究科都市工学教授と、学者が多い。
報告者の山下善寛さんも「この計画に市民は参加していない。しかも環境省主導で水俣市の主体性もない」と批判した。
ところで、現地では水俣湾の環境再生を目的とした「水俣湾堆積汚泥処理事業」が1975(昭和50)年に始まり、1990年に完了した。
この「エコパーク水俣」と呼ばれる埋立地の下には150万㎥の水銀ヘドロと数千本のドラム缶にコンクリート詰めされた水銀汚染魚がある。
この埋立地と周辺の海域は鋼矢板で遮断されてはいるが、工事から30年あまりが経過して、水銀ヘドロの流出が心配され、老朽化対策が検討されている(『水俣学研究』第2号、31ページ)。
筆者が住む大阪府下の豊能町と隣の能勢町共同のゴミ焼却場から出たダイオキシンに汚染された土壌は今もドラム缶詰にされたまま処分方法が決まっていない(焼却場はすでに廃止)。
水俣市内にもダイオキシン汚染土壌があるというから、その行く末が気にかかる。
今も現れる患者
2009年9月、「不知火海岸住民健康調査実行委員会」(委員長、原田正純・熊本学園大学)によって不知火海を中心とする水俣病発生地区の未申請、未認定患者約1000人の水俣病に関する一斉検診が実施された。
参加したのは医師144人、看護師・保健師、臨床心理師など延べ600人。
検診場所は17ヵ所、診察は水俣病診断の経験がある医師と神経内科、神経精神科医のダブルチェックを原則とした。
驚くのは、この受診者の約9割が水俣病検診が初めてだったことで、これまで申請をしなかった理由について「差別されるのが恐かった」と答えた人が45.6%、「情報がなかった」、「申請の仕方が分からなかった」が40.8%もいたことには水俣病問題が“終わっていない”ことを改めて教えている(調査結果の詳細は『水俣学研究』第2号、61ページ以下)。
集会では水俣協立病院の藤野糺医師がチッソのアセトアルデヒド工場操業停止(1968年5月18日)以降に生まれた人の症状について報告した。
藤野医師は操業停止後の不知火海一円の胎児で、出生後に一定期間住み、協立病院などで受診した117人の症状を調べた。
他方で、①国立水俣病総合研究センターによる水俣湾のカサゴ、ベラ、シロギスの26年間(1978~2004)の水銀濃度調査、②原田医師、頼藤貴志医師による水俣湾岸住民293人の保存臍帯(へそおび)の分析と東京都との対照―を踏まえて、アセトアルデヒド生産終了後も高い値の水銀濃度を示していて、汚染が続いていることを報告した。
「91年の中公審答申『1969年以降は水俣病発生可能性レベルの持続的水銀曝露はない』を受けて、科学的な根拠なしに救済対象年代を1969年11月までの出生と限定して、特措法は水俣病に蓋をしようとしている」(藤野医師)。
チッソの事業再編計画・分社化の行方
“水俣病は終わらない”とは“チッソの責任も終わらない”ということでもある。
だが、集会の締めくくりとして報告された「チッソ分社化」の中身はその“責任”の行方を曖昧にしようとするものではないのか。
報告はチッソの事業再編計画について商学部教授、税理士ら3人の専門家が貸借対照表などの分析をしてくれたが、「債務の見込額を明らかにしないバラ色の計画」、「分からないことが多すぎる」という苛立ちを込めた言葉があり、その背後には“要するに分社化のための作文に過ぎない”という思いがあったのではないか。
象徴的なのは、特措法全42条のうち半分までが「関係事業者の経営形態見直し」と「補償を支給する特定支給法人」に関する条項で、救済措置については2つの条項しかないことだ。
熊本学園大学水俣学研究センター長の花田昌宣さんは分社化について、「水俣病債務を引き継がない新事業会社の設立↓患者認定業務の終了↓水俣病は終わった」とされ、残されるのは膨大な被害者と、チッソの債務の処理を誰がするのかという問題だ、というシナリオの可能性を指摘した。
チッソの後藤会長は分社化によって「水俣病の桎梏から解放される」、「社員が水俣病のことを忘れて仕事に勤しむようにできれば」と語っているという。
ところで、九州大学大学院共生社会学准教授・飯嶋秀治さんは、水俣市茂道の人たちと山のような魚を食べながら酒を酌み交わしたことを話したが、その時、耳元で「水銀の味は旨かろう」と囁かれたという。
スイギンノアジハウマカロウ。
(次号では水俣学の先駆者、宇井純、桑原史成、原田正純の3人の“原点”に降りてみたい)。
『水俣学研究』はじめ集会の資料についての問合わせは左記へ。
◎熊本学園大学水俣学研究センター
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について
ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。
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1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
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