截金師・江里佐代子さんを悼んで〈上〉|MK新聞連載記事

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截金師・江里佐代子さんを悼んで〈上〉|MK新聞連載記事

MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、フリージャーナリストの加藤勝美氏よりの寄稿記事を掲載しています。
截金師・江里佐代子さんを悼んでの記事です。
MK新聞2007年12月1日号の掲載記事です。

去る2007年10月3日、截金師で人間国宝の江里佐代子さんがご逝去されました(享年62歳)。
本項では、筆者が1993年に江里さんを取材し、本紙「関西おんな智人抄」に掲載した記事を再録いたします。

截金師・江里佐代子さんを悼んで

この11月5日から11日まで銀座・和光ホールで開かれる『江里康慧・江里佐代子の世界―仏像と截金』展の準備で忙しいなか、時間を取ってもらった。
夫の康慧(こうけい)さんは仏師、佐代子さんは仏像を截金で荘厳(しょうごん)する。
そして、これまで截金の技法を使って香合や筥(はこ)、インテリアも創作してきたが、今回は江戸後期の画僧・仏崖の○△□をテーマにした作品を展示する。
既に截金だけの展覧会を三回、夫の仏像との合同展を一回開いている。

佐代子さんの実父・樹田(きだ)國蔵さん(故人)は代々の刺繍師で信仰に厚く、菩提寺に寄進する仏像の制作を康慧さんの父・宗平さんに依頼し、そこから康慧さんとの縁が生まれるが、実はどちらも市立日吉ヶ丘高校出身で、康慧さんは三年先輩でもあった。
二人は1971年に結婚したが、高校で日本画、成安女子短大で染色を学んだ佐代子さん(1945年生まれ)は、実家で着物や帯を染める仕事をしていたので、結婚後もそれを続けるつもりだった。
しかし、すぐに長女・朋子さんが生まれ、家族は宗平夫妻と離れて弟子五人と一緒に桂のアトリエでの生活に入った。

食器類も揃え、好きな料理を作るスイートホームを夢見ていたのだが、子育てと夫、弟子たちの世話に追われる生活となり、体調を崩して病院にも通うようになった。
しかし、子供の昼寝の合間、ふと思い立って筆をとった時、それまでのもやもや、苛立ちが払拭され、すーっと消えてしまう瞬間を味わった。
「打ち込むこと、何かを持つことが大事だ!」。
作家活動をする友人の姿も見えてくる。せめて今の自分にできることをと、本を読み、「美しいものを見たい」という思いで写真集、美術書から離れられなくなった。
そして、やっと「出来るかな」と思い始めた1976年、長男の尚樹君が生まれ、思いは遠のくかに見えた。
その頃、宗平・康慧の「親子展」が開かれることになり、佐代子さんはそれに『参加したい』と切に思った。
長男誕生の一ヵ月後、それまでため込んでいた思いを込めて、染めで仏画に挑戦、親子展に出品した。
そして「両親と一緒に住みたい、素晴らしいおじいちゃんの姿をわが子に見せたい」と思った。
父の宗平さんは明治41年、佐賀県生まれ。尋常高等学校を卒業して、十四歳の時から六年間博多で修行し、昭和二年に京都へ出て西本願寺・大仏師畑治郎右衛門の弟子となり、師の没後、昭和八年に独立した人である。

(ここまで、1993年10月22日付377号MK新聞「関西おんな智人抄〈160〉より再録)

取材中は気がつかなかったのだが、録音テープには“とんとんとん”と木を刻む鑿の音が入っていた。
佐代子さんの夫・康慧(こうけい)さん(昭和18年生まれ)、その父・宗平(そうへい)さん(明治41年佐賀県生まれ)はともに仏師で、康慧さんは市立日吉ヶ丘高校を卒業して松久朋琳、宗琳(ともに故人)に師事、1965年から父の許で仕事を始めた。
二人は1971年に結婚、翌年朋子さん、1975年に尚樹君が生まれた。
「男の子が生まれて父も主人も喜びました。空気、気配というか、この子にかけられているものが私にも伝わってきました。この人も仏師になる、継いでいくんだ、家の者が一つになれたという思いが強かったんです」。
佐代子さんは『私もそれに参加したい』と思った。
そして、父も夫も「截金をできる人がいなくなったら困る。今のままでは衰微していく」と言い、考えていなかった截金師への道を踏み出す。
1977年に松久宗琳師の娘・真やさんが当時開いた截金教室に通い、翌年から、北村起祥師に学んだ。

ところで截金は「金銀の箔を細線状や小さな三角、四角、菱形などに切ってはり、文様を施す手法」で、仏像を荘厳(しょうごん)する技法として、奈良時代に唐からもたらされた。
厚さ一万分の一㍉から三㍉の純金箔を五、六枚焼き合わせ、板に鹿の革を貼った盤の上に置き、竹刀で切るが、その幅は目分量。
切った箔を取り筆(左手)に軽く巻きつけ、截金筆(右手)で膠とふのりを合わせた糊をつけて、箔を置いていく。
わずかな風や振動を嫌うから息を詰めての作業である。
夫からは「仕事となれば趣味ではいけない。それだけの覚悟で臨め」と厳しく言い渡されたが、実際に始めてみて『しまった!』と思った。
「後悔ではなく『大変なものだったんだ』と。娘時代の染色は学生の延長でしたが、これは、ご納入、落慶法要等があり、『間に合いません』と一切言えない世界です」
家事は現在、母の小夜子さんとお手伝いに助けられているが、截金を始めた頃は夕方になると主婦として台所に立たなければならなかった。
仕事に没頭して子供の面倒を十分に見てやれない。最低限のことはしようと、朝食は一緒に食べ、学校から帰ると必ず顔を見る。
学校での出来事をキャッチできる母親でありたいと思った。それを怠ると子供は熱を出したり、風邪を引くのだった。

(1993年11月7日付378号MK新聞「関西おんな智人抄〈161〉より再録。写真・記録等は当時のものです)

 

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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について

ペシャワール会北摂大阪。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。

MK新聞への連載記事

19200以来、MK新聞に各種記事を連載中です。

1985年11月7日号~1995年9月10日号 「関西おんな智人抄」(204回連載)
1985年10月10日号~1999年1月1日号 「関西の個性」(39回連載)
1997年1月16日号~3月16日号 「ピョンヤン紀行」(5回連載)
1999年3月1日号~2012年12月1日 「風の行方」(81回連載)
2013年6月1日号~現在 「特定の表題なし」(連載中)

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