鴨川の納涼床の歴史|京都の夏の風物詩のはじまりと祇園祭との関係

京都の夏の風物詩として知られる鴨川の「納涼床」。夏の暑さで知られる京都では、古くから鴨川は貴重な納涼スポットでした。
もとは鴨川の河原にゴザをしいたシンプルな床から始まり、明治以降の治水工事により今のように高床式の仮設の納涼床が設けられるようになりました。
実は江戸時代には祇園祭の一環として行われており、前祭と後祭限定のイベントでした。
納涼床の始まりから現代までの歴史をたどります。
鴨川納涼床の歴史
河原の見物席が納涼床のはじまり
平安時代から夕涼みの場だった鴨川
平安中期の歌人である曽禰好忠が「喫する賀茂の川風吹くくらしも 涼みにゆかん妹をともなひ」と詠んだように、鴨川は1,000年の昔から都人の夕涼みの場でした。
かつての鴨川は今よりも川幅が広く、西は今の河原町通、東は今の大和大路通(縄手通)付近までの約300メートルもありました。
もちろん、川幅いっぱいに流れるのは増水時のみで、普段は広大な河原や中洲が広がっていました。
鴨川の河原や中洲は多くの芸人が集まる歓楽地として利用されていました。
歌舞伎の祖である出雲阿国(いずものおくに)が初めて興業を行ったのも鴨川の四条河原です。
これらの見世物の見物席が納涼床のはじまりといわれます。

1704年刊行 金屋平右衛門編「宝永花洛細見図」出典:国立国会図書館デジタルコレクション
河原にゴザをしいただけのシンプルな床
当時の納涼床は、文字通り鴨川の河原にゴザやむしろを敷いて床としただけのシンプルなものでした。
夕暮れどきになると、京都の町衆たちが鴨川の四条河原に集まり思い思いに楽しむようになっていきました。
鴨川の納涼床が初めて文献に登場するのは、中川喜雲が寛文2年(1662年)に記した京都のガイドブックである「案内者」です。
祇園の会(祇園祭)の説明のなかで前祭の山鉾巡行に続いて「その夜より四条河原には、三条をかぎりに茶屋の牀あり、京都の諸人毎夜すずみにいづる、飴うり・あぶりどうふ・真瓜(まくわ)等の商人、よもすがら篝をたく」と記されています。
夜になると三条から四条の河原には多くの人が集まり、軽く食事をしながら涼んでいたのです。

京都名所之内「四条河原夕涼」出典:国立国会図書館 NDLイメージバンク
鴨川改修に伴い護岸から張り出し式の床に
寛文10年(1670年)、大規模な河川改修が鴨川にて行われ、川岸に護岸が設けられました。いわゆる寛文新堤です。
寛文新堤の完成により、鴨川の川幅も半分以下の約100mとなりました。鴨川西岸では、かつて河原だったところが新たに開発され、先斗町(ぽんとちょう)などの繁華街があらたに生まれました。
鴨川東岸では、四条河原に仮設されていた芝居小屋が移設されて常設なり、今の南座へとつながっています。
治水工事後、鴨川岸の護岸からの張り出し式の床も設置されるようになりました。
今の納涼床と比べるとかなりシンプルなものですが、鴨川の流れの真上で楽しめるようになりました。
引き続き鴨川の中洲にも簡単な床を設置し、ともに酒食を楽しむ場として大いににぎわいました。

1677年刊行 黒川道祐「日次紀事」出典:国立国会図書館デジタルコレクション
延宝5年(1677年)刊行の日次紀事では、「四条河原の水陸、寸地を漏らさず床を並べ、席を設く」と記載されています。
河原がぎっしりと床で埋まっていたのです。いかに賑わっていたかが伝わってきます。

四條河原夕涼之図 出典:国立国会図書館 NDLイメージバンク
祇園祭の一環だった納涼床
中洲の仮設小屋と両岸の高床式の川床
安永9年(1780年)の「都名所図会」では、寛文新堤完成後でも今よりもかなり川幅が広い鴨川に大きな中洲があり、たくさんの仮設小屋が並んでいる姿が描かれています。
鴨川の中洲には飲食を供する店だけでなく、見世物小屋や芝居小屋など多彩な店があります。
鴨川の東岸には高床式の川床が並んでいます。雑然とした中洲とは異なり、統一したデザインの建物となっています。

都名所図会「四条河原夕涼の体」 出典:国際日本文化研究センター
八坂神社のご祭神が始めたと伝わる納涼床
解説文には、6月7日から18日まで夕涼が行われたと記載されています。
旧暦では祇園祭の前祭は6月7日、後祭は14日に行われていました。前述の寛文2年(1662年)刊行の「案内者」でも前祭の夜から納涼床が始まると記載されていました。
都名所図会では、さらに「牛頭天皇の蘇民将来に教給ふ夏はらへの遺風なるべし」との開設記載されています。祇園社(八坂神社)のご祭神である牛頭天皇が始めたと伝えられていたことがわかります。
今では鴨川の川床と祇園祭は直接の関連はありませんが、祇園祭と深いつながりがあったのは驚きです。

四条河原納涼 木村明啓 編 1864年刊行「花洛名勝」 出典:国際日本文化研究センター
宵山と納涼床
元治元年(1864年)刊行の「花洛名勝」でも、「6月7日の夜より18日の夜にわたって、四条河原水陸寸地を漏らさず床を並べ席を設けて良賤般楽す。東西の茶屋茶店提灯を貼り、行灯を掲げてあたかも白昼の如し。これを川原の涼みという、あんずるにこれ遊戯の納涼にあらず。諸人に名越しの夜をなさしめんとの神慮なるべし。されば13日の夜に至っては、祇園の宵宮とてことに賑わし云々」と記されています。
ところで花洛名勝が出版された元治元年(1864年)6月5日には池田屋事件が起こっています。6月7日の山鉾巡行を前にした宵々山の事件でした。
当時の京都の都人たちは、6月6日までは祇園祭前祭の宵山を楽しみ、6月7日からは鴨川の納涼床を楽しんでいたのです。
なかなか豊かなナイトライフを楽しんでいたんですね。

五雲亭貞秀「皇都祇園祭礼四條河原之涼」出典:国際日本文化研究センター
19世紀半ばの祇園祭の鴨川をパノラマ状に描いた「皇都祇園祭礼四條河原之涼」では、山鉾と鴨川の河原に広がる納涼床の姿が見えます。
先祭の先頭を行く長刀鉾が巡行する姿があるので、旧暦6月7日を描いていることがわかります。
ぎっしりと人で埋まった四条大橋上を祇園祭神幸祭の神輿が進んでいます。
鴨川の中洲も納涼床で埋まり、南は五条大橋付近まで伸びています。
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五雲亭貞秀「皇都祇園祭礼四條河原之涼」出典:国際日本文化研究センター
三条から五条まで広がる納涼床
四条大橋の北側の中洲にもびっしりと人がいます。
「芝居」「見世物」「大カラクリ」「ハナシカ(噺家)」といった見出しが見えます。
特に大カラクリは大きな小屋で、まるで今のサーカス小屋のようです。
江戸時代の川床は、今でいう遊園地のような感じだったことがわかります。

五雲亭貞秀「皇都祇園祭礼四條河原之涼」出典:国際日本文化研究センター
鴨川の中洲へは、多くの小さな橋がかけられています。
手前には、山鉾の鉾頭と真木が見えています。
1956年までの山鉾巡行は、四条通を東へ進み、寺町通で右折して南へと下がっていました。
ですので、このアングルで山鉾がみえることはなく、一種のデフォルメです。

都林泉名勝図会「四条河原」 出典:国際日本文化研究センター
寛政11年(1799年)の「都林泉名勝図会」では、鴨川の東岸と中洲が大いに賑わう姿が描かれています。
「東西の青楼よりは川辺に床を設け、灯は星の如く、河原には床几をつらねて流光に宴を催し」という解説文が添えられています。

都林泉名勝図会「四条河原」 出典:国際日本文化研究センター
18世紀後半には、祇園祭の限られた期間だけでなく、夏の約2ヶ月間にわたって納涼床が行われるようになりました。神事の一環としての行事ではなく、催事としての側面が大きくなったのでしょう。
また鴨川の三条を越えて二条河原にも広がり、鴨川だけではなく糺の森、高瀬川、渡月橋などでも納涼床が行われていました。

嵐山 国立国会図書館デジタルコレクション「笹田駒治『京名所写真帖』1903刊行」
明治時代には、渡月橋の北詰で大堰川に床を設置している写真が撮られています。
河川改修により大きく姿を変えた納涼床
疎水や京阪の開通で鴨川東岸の納涼床が姿を消す
明治時代になると、鴨川東岸には琵琶湖疎水の鴨川運河や京阪本線が開通した影響で川床は姿を消しました。
鴨川運河や京阪本線の開通により、京都は大きなメリットを享受しましたが、同時に川床の消滅という代償も払っていたのです。
中洲の川床も、1911年の鴨川浚渫工事で中洲が消滅して無くなり、今と同じく鴨川西岸のみで川床が行われるようになりました。

京都加茂川涼の景 国立国会図書館デジタルコレクション「小林忠治郎『京都名勝』1907年刊行」
納涼床の下に「みそそぎ川」が設けられる
度重なる鴨川の浚渫によって川床と鴨川の距離が離れてしまったことから、1917年に木屋町や先斗町の貸座敷業者が京都府に「夏の納涼床下に清水を通ずる等の設備されたし」との陳情を行い、鴨川西岸の川床下に人工水路として「みそそぎ川」が設けられました。「みそぎ川」と言われることもあります。
みそそぎ川は、一条のあたり(京都府立医大の少し北)で鴨川から分流し、河川敷下を暗渠で南流し、竹屋町付近で姿を現します。下流は五条大橋で再び鴨川へと合流します。
1935年の京都大水害後の河川改修によって、今の形の川床になりました。
戦時中には営業自粛や金属供出により川床は姿を消しましたが、1950年には早くも川床が復活をしました。
2007年には、「鴨川納涼床」として地域団体商標登録(第5004069号)されました。

鴨川の川床 撮影:MKタクシー
納涼床の設置基準
防災や景観の観点から設けられた基準
当時の納涼床は統一されたものではなく、店によって高さや形状もまちまちで見た目もよくはありませんでした。
そこで、1923年に京都府が「鴨川河川敷占用並びに工作物施設の件」という通達を行い、統一した基準が設けらられるようになりました。
1929年には防災の治水の観点から半永久的な施設の設置が許されなくなり、今のように決まった期間のみ納涼床が許可されるようになりました。
今の鴨川の川床には、京都府が定めた「鴨川納涼床審査基準」が適用されます。
京都府の鴨川条例には、「知事は、鴨川納涼床に係る河川法に基づく許可の審査基準を、鴨川の良好な景観の形成に配慮して定めるものとする」という条文があります。
この条文に基づき定められたものです。

「鴨川納涼床審査基準に係るガイドライン」の一部
形や大きさ、色まで定められた基準
川床の高さや張り出しはもちろん、造りや色彩まで細々と定められています。
良好な景観維持はもちろんん、鴨川の治水上の安全面にも配慮がされています。
鴨川条例によって、統一的な美しい川床の景観が維持されているのです。

月百姿 四條納涼 出典:国立国会図書館 NDLイメージバンク
おわりに
京都の夏を代表する風景「鴨川納涼床」。今回はその歴史や祇園祭とのかかわりなどを紹介しました。
納涼床での食事体験ができるのは、例年5月から9月にかけての限られた季節のみ。2025年は特別に10月15日まで延長予定です。
鴨川沿いで納涼床を設けている店舗は和食、フレンチ、バーなど、ジャンルや予算も実に多彩です。たくさんのお店を見比べたい方は、鴨川納涼床の公式サイトをチェックしてみてくださいね。
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