アメリカ反戦兵士たちに寄り添うために③『動くものはすべて殺せ』から(後篇)MK新聞連載記事
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MKタクシーの車載広報誌であるMK新聞では、ジャーナリストの加藤勝美氏による連載記事を掲載しています。
MK新聞2019年3月1日号の掲載記事です。
アメリカ反戦兵士たちに寄り添うために②ニック・タース著『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』から(後篇)
100m先の標的を撃つおもちゃのようなライフル
戦場に出て6ヶ月で実力を証明しなければ昇進が望めなかった下位ランクの士官たちと、彼らが指揮をとっていた戦闘部隊は常に敵の“殺害数”をあげなければならないというプレッシャーにさらされていた。
地域の確保や平定は二の次で、あらゆる戦場でボディカウントが戦績を測る指標とされ、士官はそのことで頭が一杯だった(54ページ)。
その一方、“歩兵”たちにも死体の数を増やしたくなるご褒美が用意されていた。
ある部隊では殺害実績が認められると三日間の現地保養休暇が与えられ、ビーチにも行けた。
彼らは互いに競わされ、ボディカウントが多い部隊に保養休暇かビールが1ケース余分に与えられた。
ある帰還兵は言う、「19歳の若造に、人殺しをしてもいいんだ、褒美が貰えるぞというわけだ。頭がおかしくなっても不思議はないだろう」(55ページ)。
時には、賞品を賭けて全部隊対抗コンテストが開催され、死者数をスポーツの記録のように考える風潮を強めた。
農村部では、黒いパジャマを着た者が走れば、誰であろうと殺すことができ、道路で車を運転している時、走行の邪魔になる者がいれば、誰彼かまわず殺してもいいと思っていた(188ページ)。
家、墓、寺院も軽はずみな発砲や破壊的な衝動の犠牲となった。
若さ、人種的偏見、怒り、退屈、恐怖、疎外感、匿名性、免責の悪習、興奮が合わさって有毒な刺激剤として作用した。
若い兵士たちは全く身に馴染まない、当惑することだらけの国で、その社会との間に大きな心理的隔たりを感じていた。
そしてその彼らに遠距離から標的を狙える強大な武器が渡されていた。例えばM79グレネードランチャーは430mの距離から人を殺すことができ、遠くから殺戮を楽しむことができた。
つまり兵士全員がミニチュアの砲兵となった。
M60の機関銃の破壊力は、陶酔ともいえる快感をもたらし、ほとんどの歩兵が携行していたM16ライフルは一分間に700発発射でき、100m先の標的の腕、脚をもぎ取ることができた。
しかもそれは子供のおもちゃそっくりだった(189ページ~)。
米軍総司令官の免責、退役軍人たちの反乱
ヴェトナム戦争中の残虐行為は保身と否定、最終的には免責の文化に助長された。
過失は隠蔽し、悪いニュースは可能な限り伏せておく。指揮官たちにはそれが標準的な行動要領だった(229ページ)。
民間人の射殺という事態を憂慮したある軍曹は陸軍あてに手紙を書き、一年後の1971年3月に再度手紙を書き、犯罪捜査司令部がその軍曹と面談する予定が組まれた。
しかし、ヴェトナム駐留軍総司令官ウェストモーランドが下した結論は「この件について我々はできる限りのことをした」というものだった。
軍曹の手紙は、著者のニックが国立公文書管理局で発見するまで、忘れ去られていた。
ウェストモーランドがこの作戦の捜査を打ち切ったことで、陸軍はミライ事件(日本ではソンミ事件と呼ばれる)に続いて大量虐殺スキャンダルの対応に追われることにならず、そのうえウェストポイントの同窓生を守ることもできた(260ページ~)。
ウェストモーランドはウェストポイント陸軍士官学校の誇り高い1963年度卒業生で、同窓生は派閥を作り、ヴェトナム戦中は特に幅を利かせた。
軍内部では“ウェストポイント擁護協会”という暗黙の同盟があると言われ、1968年には陸軍の高級指揮官と参謀士官合わせて24名のうち22名がこの士官学校出身だった。
出身者が戦争犯罪に関与した嫌疑がかかっても、そのほとんどが都合よく立ち消えとなった(262ページ)。
何ヶ月もの間、ミライ事件にかかわる証拠の公表を遅らせてきた陸軍も、「これがニュルンベルク(注 ナチス・ドイツの戦争犯罪裁判)並みの大きな裁判に発展する」可能性があるという警告を受け、ウェストモーランド陸軍参謀総長と陸軍長官がピアーズ中将を捜査担当者に指名し、彼が率いた調査委員会は、「米兵たちが広範囲にわたって住民を殺害し、そのほぼ全員が高齢者男性と女性、子供に限られていた」と明言、この事件の隠蔽工作について、「中隊かち師団まで、指揮系統のあらゆるレベルで情報を隠蔽または制限した」と指摘した。
1970年3月に公表された調査委員会の報告内容は従来の報道と変わらず、4年以上の間秘密にされた。
後年、陸軍犯罪捜査司令部長のタフツ大佐は、ミライ事件についてのウェストモーランドの反応について、「彼が隠蔽工作をした」と述べた(272ページ~)。
1971年の初め頃には、ニュルンベルク裁判で首席検事を務めた元陸軍准将テルフォード・テイラーは「ウェストモーランド自身も有罪となる可能性がある」と指摘、ウェストモーランドは“ヴェトナムにおける戦争行為 コンタクト・オブ・ウォー・イン・ヴェトナム”(COWIN)を調査する特務班を立ち上げ、延べ5,000時間以上を費やして報告書をまとめたが、「ヴェトナム駐留米軍総司令官に対する戦争犯罪疑惑は根拠がない」と結論づけた(277ページ)。
この報告書は結局公表されなかったが、著者のニックは次のように指摘する。
「それが存在したという事実は、アメリカ国内の空気が劇的に変化したことを証明している。ウェストモーランドは、ほかの残虐行為を告発した陳述書が何千通も、執務家に眠っていることを痛いほど意識していた。多くは彼が早々に調査を打ち切らせ、握りつぶしたものだ」(278ページ)。
軍事歴史家・軍事アナリストのロパート・ハインル大佐はある雑誌の1971年6月号で「いまヴェトナムに残っている陸軍は、崩壊に近づきつつある。各部隊が戦闘を避け、あるいは拒み、士官や下士官たちを殺害し、麻薬漬けとなっていて…」と書いている。
そして、現役兵士や帰還兵も声をあげていた。
1971年には反戦を唱える兵士が何百もの地下新聞を発行し、不服従や暴動を促していた(279ページ)。
この年の4月、叙勲された退役軍人たち800人が異例の行動を起こした。
ワシントンを訪れ、名誉の証として大切にしてきたメダルやリボンを返還した。
彼らは野戦服やフィールドジャケットを着てヘルメットや迷彩入りのつぼ広帽をかぶり、ヴェトナムで使ったブーツを履いていた。
デモ隊が議事堂に入るのを阻止するため、バリケードが立てられると、デモ隊はサッと後退し、壁の向こうの議事堂の階段にメダルなどを投げつけた。
警察が出動し、参加者は抵抗せず、捕虜のように両手を頭の上に置いておとなしく引っ張られていった。
彼らは軍に対して集団で声を挙げるという、アメリカの兵士が過去200年、一度も取ったことのない行動に踏み切ったのだった(280ページ)。
(2019年2月8日記)
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フリージャーナリスト・加藤勝美氏について
ジャーナリスト。
1937年、秋田市生まれ。大阪市立大学経済学部卒
月刊誌『オール関西』編集部、在阪出版社編集長を経て、1982年からフリー
著書に『MKの奇蹟』(ジャテック出版 1985年)、『MK青木定雄のタクシー革命』(東洋経済新報社 1994年)、『ある少年の夢―稲盛和夫創業の原点』(出版文化社 2004年)、『愛知大学を創った男たち』(2011年 愛知大学)など多数。
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